永禄六年〔足利氏の末〕諸役人附鈔書付考註

2017年02月07日 15:24

593 名前:1/2[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 21:56:10.18 ID:l0/11MB8
永禄六年〔足利氏の末〕諸役人附鈔書付考註

 塙(保己一)の『群書類従』の中に、『永禄六年諸役人附』というものがある。
これは足利氏の時代末期のものである。今その所載を抄書する。

「〔上略〕
外様衆 大名在国衆〔号国人〕
    山名次郎義祐改名左京大夫
御相伴 北条相模守氏康        御相伴 今川上総介氏実(真)  駿河
    上杉弾正弼輝虎  越後長尾      武田大膳大夫入道晴信 甲斐
    畠山修理大夫義継 能登之守護     織田尾張守信長    尾張
    嶋津(島津)陸奥守貴久         同修理大夫義久
相伴  伊東三位入道義祐 日向  
    毛利陸奥守元就            同少輔太郎輝元    安芸
    吉川駿河守              松浦肥前守隆信    肥前
    河野左京大夫通宜 伊予        有馬修理大夫義真 
    同太郎義純    肥前        嶋津(島津)薩摩守義俊
    宗刑部大輔    対馬        伊達次郎晴宗     奥州
    松平蔵人元康   三河        水野下野守      三河

関東衆〔以下略〕」

私、松浦清が説明を加える。
・山名義祐は、今交代寄合の山名靭負義問の祖先であろう。義問は六千七百石である。
・北条氏康は、今の相模守氏喬の先祖であろう。氏喬は狭山領主一万石。
・今川氏実は今の高家、侍従刑部大輔義用〔千石〕の祖先である。
・上杉輝虎は、米沢侯斉定の先祖、今十五万石。
・武田晴信は、今の高家、侍従大膳大夫信典〔五百石〕の先祖であろう。
・畠山義継もまた、高家で、侍従飛騨守義宜〔三千百石余り〕の先祖であろう。
・織田信長は、右大臣、今の羽州村山領主、若狭守信美の祖で、今二万石。
・嶋津貴久、義久は、薩摩侯隅州斉興の先祖で、今七十七万八百石。
・伊東義祐は、飫肥侯修理大夫祐相の先祖であろう。今の五万千八百石余り。
・毛利元就、輝元は、長州侯大膳大夫斉元の祖先で、今三十六万九千石余り。
・吉川駿州は、今の長州の属臣、吉川監物の祖であろう。防州岩国の城に居り、六万石を領している。
・松浦隆信は、わたくし清の十世の祖で、道可殿であられる。
・河野通宜は、今の久留島侯、予州の通嘉の祖先であろう。通嘉は今、豊後森領主で一万二千五百石である。
・有馬義真、義純は、今の丸岡侯徳純の祖先で、今越前で五万石。
・嶋津義俊は、誰か未詳だが、きっと今の薩摩侯の先祖であろう。
・宗は、今の対馬侯の先祖であろう。祖先の中に刑部大輔の称を見たことがある。
・伊達晴宗は、今の仙台侯の祖先で、元祖政宗の先祖であろう。今、斉邦は六十二万五千六百石余りを領している。
・松平元康は、かたじけなくも神君であられます。元康は始めの御諱であられる。
・水野下野守は、今水野越州、羽州、日州の先祖であろう。三氏は今それぞれ六万石、五万石、一万八千石。

594 名前:2/2[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 21:56:34.61 ID:l0/11MB8
 以上のことを見よ。世の興廃はかくの如しだ。これは足利が公方と称したときの外様衆である。
しかし、かえって今は主君であった足利がわずかに御旗本の輩に入っているだけで、
大名在国衆なる者も、あるいは旗本または外藩護衛の身分となっている。

 予の先祖の公や有馬伊東の輩が、恐れ多くも神君の上にあれども、
今となっては皆、御当家を敬拝尊従することに至っている。
これというも、神君の御高徳は仁義知勇を備えられておられる御大勲で、
いわゆる立身行道し、名を後世に揚げて父母を顕す者であられるからだ。
上杉武田の両雄、織田の威顕もいつのまにか跡形もなく、
毛利嶋津伊達の強大も、今はわずかにその旧を保つも結局臣伏し、
ただ水野氏は御当家に新属し、かえって古より富めるに至ったのであろう。

 これというも、日光権宮の御深仁である。
明智は論ずるに足らず。
豊太閤は、まだこの時匹夫で名も無い。しかし、たちまち広大になって、
ついには外国を掠奪するに至っても、その道半ばにして身を喪った。
天がなしたのであろうか。
 我が隆信君の子の法印公(鎮信)君は、豊閤遠伐の役に随われ、
出色の勇武であったが、ついに外国で賊徒の名を負われた。
いまこのように太平の時に随従できて内外で非義不仁の名を負う事が無いのも、
まことに神祖の大恩・大恵に違いない。


(甲子夜話三篇)



601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/07(火) 07:07:58.26 ID:DeSn+Eio
>>593
山名義祐って赤松義祐のこと?

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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    >我が隆信君の子の法印公(鎮信)君は、豊閤遠伐の役に随われ、
    >出色の勇武であったが、ついに外国で賊徒の名を負われた。

    そのまた先祖は倭寇だから……!

  2. 人間七七四年 | URL | -

    嶋津義俊って誰だろ?と思ったら薩州家島津義虎の改名前の名前なんだね
    本家(伊作家)とは完全に別行動で将軍に拝謁しているし、朝鮮出兵時の問題行動は本家からすると豊臣家から睨まれるわ家中統制もやるわでてんてこまいだな。こう調べると、九州征伐から関ヶ原後の島津家って伊達政宗並に取り潰されてもおかしくない危機を何度も迎えているね

    しっかし戦国期の大名は何処もかしこもポンポン気軽に名前変えているな。そりゃ静山もあろうか?記述が増えるわw立花宗茂とか同時期の人達でも把握してたんだろうか

  3. 人間七七四年 | URL | -

    >予の先祖の公や有馬伊東の輩が、恐れ多くも神君の上にあれども、

    一時守護だった有馬はともかく、松浦・伊東は幕府に金積んだ結果だからホントに恐れ多いな

  4. 人間七七四年 | URL | -

    >山名義祐

    次郎とか、左京大夫は赤松惣領家家督の仮名や官途だから、たぶん赤松義祐だと思う。

  5. 人間七七四年 | URL | -

    >元祖政宗の先祖
    大膳太夫政宗「俺のことだよな?な?(震え」

  6. 人間七七四年 | URL | -

    これ三好との和平期間の年次の割には、三好系の御家人の名前が入ってないんよね。
    だから同時代資料を装った偽書なんじゃねえかって思う。

  7. 人間七七四年 | URL | -

    永禄6年と書いてあるからといって永禄6年その年に出たということにはならないのでは?
    というか、多分に政治的なものなので反・三好氏な人が編集しなおしたのかもしれんね。

  8. 人間七七四年 | URL | -

    六角とか畠山(金吾家)とかも抜けてるし
    中央政界に容喙する大名は別グループなだけかもしれない

  9. 人間七七四年 | URL | -

    ※7
    研究者によると「永禄六年諸役人附」は前半部分は永禄6年だが、
    後半部分が永禄8年~永禄11年くらいだそうな。

    ちなみに今回話題になっている「外様衆 大名在国衆」は後半部分だそうです。

    家康の苗字が徳川じゃなくて官位も三河守じゃないのは室町将軍をスルーして
    得たものなので足利将軍としては認めていないという意思表示らしい。

    じっさい義昭が追放されるまでに家康に当てられた書状は全て松平蔵人宛。
    追放後は媚びたのか徳川三河守宛にコロリと変わってますね。

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