614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/11(土) 03:22:48.92 ID:9KjJhSaN
藤堂和泉守(高虎)一代の事を書いた巻物を大献院様(徳川家光)の御前で誰に
読ませなさるべきかとのことになった時、
酒井讃州(忠勝)は「ここに道春(林羅山)がおります」との事だったが、和泉守は、
「私めの一代の大事のことを書いた物ですから、道春などは如何なものでしょうか。
始終を存じている者に、読ませたく存じます。私の家来の八十島助左衛門を召し
連れておりますが、如何でしょうか?」
とのことであった。そこで阿部豊州(忠秋)が挨拶して、八十島を御前へ召し出し、
巻物を読ませなさったのであった。
この八十島は石田治部少輔(三成)の右筆だった。太閤逝去のことを石田方から
源君(徳川家康)へ申し上げた時、そのために遣わした者である。
後に和泉守の家来となり、法体の後に道壽と願い申した。その子もまた助左衛門
と称した。
――『武功雑記』
615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/11(土) 10:10:50.18 ID:C0rHEjqo
関ヶ原であの鬼島津を激怒させた人物だな
618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/11(土) 21:09:17.19 ID:Ef6mH3qv
>>614
俺が家光だったら、三成に身近に仕えた奴が来たら
僅か佐和山19万石の身分で西軍を取り仕切ってた
石田三成はどのような人物だったか直接聞きたいわ
高虎の出世自慢話なんかよりもな
619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 10:12:11.42 ID:nMor2Kps
>>618
真面目な話、当時は正軍首脳部に参画していた人間もまだ生きていたのだから、石田三成が
どういう立場だったかなんて、自明の理だったと思うぞ。
620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 10:25:57.30 ID:24fLrA8I
七将に狙われて家康に匿ってもらったヘタレです
621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 11:35:04.27 ID:vMpwbjHL
それデマだってな
622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 13:09:17.50 ID:PNwm5RpP
伏見の徳川屋敷に逃げ込んだ話の出典がわかれば、このスレに収録してもいいかもね
623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 16:32:28.50 ID:V4JJPw4p
結果的には圧勝で終わったように思われてる関ケ原だが
秀忠遅参で内心かなり焦ってたろ糞漏らし
624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 21:02:48.98 ID:WwSHWUY/
>>623
昨今は関ヶ原の決戦に関しては、もう何がどうなっても東軍の勝ち、といった感じだな。
625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 22:13:35.16 ID:PNwm5RpP
関ヶ原って、小松山に立てこもった小早川秀秋救援のための後詰決戦だったんじゃないの?
626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 22:13:57.03 ID:eMYpu3XQ
いくらなんでも楽勝って事はないという感じで改めて研究した結果
以前よりも西軍がどうしようもなかった事が判明してより可能性がなくなるというオチ
悲しいなぁ
628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 02:23:30.24 ID:1F6Bnp81
>>626
吉川の位置が悪い
635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 14:49:27.23 ID:6cpqPOvC
>>628
今では毛利の東軍への寝返りは、毛利輝元自身の指示だったという
説まで出ている。
636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 15:23:18.87 ID:JiWMRDCO
岐阜城陥落の時点で負けを見越して生き残る為に動いてるしな
藤堂和泉守(高虎)一代の事を書いた巻物を大献院様(徳川家光)の御前で誰に
読ませなさるべきかとのことになった時、
酒井讃州(忠勝)は「ここに道春(林羅山)がおります」との事だったが、和泉守は、
「私めの一代の大事のことを書いた物ですから、道春などは如何なものでしょうか。
始終を存じている者に、読ませたく存じます。私の家来の八十島助左衛門を召し
連れておりますが、如何でしょうか?」
とのことであった。そこで阿部豊州(忠秋)が挨拶して、八十島を御前へ召し出し、
巻物を読ませなさったのであった。
この八十島は石田治部少輔(三成)の右筆だった。太閤逝去のことを石田方から
源君(徳川家康)へ申し上げた時、そのために遣わした者である。
後に和泉守の家来となり、法体の後に道壽と願い申した。その子もまた助左衛門
と称した。
――『武功雑記』
615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/11(土) 10:10:50.18 ID:C0rHEjqo
関ヶ原であの鬼島津を激怒させた人物だな
618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/11(土) 21:09:17.19 ID:Ef6mH3qv
>>614
俺が家光だったら、三成に身近に仕えた奴が来たら
僅か佐和山19万石の身分で西軍を取り仕切ってた
石田三成はどのような人物だったか直接聞きたいわ
高虎の出世自慢話なんかよりもな
619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 10:12:11.42 ID:nMor2Kps
>>618
真面目な話、当時は正軍首脳部に参画していた人間もまだ生きていたのだから、石田三成が
どういう立場だったかなんて、自明の理だったと思うぞ。
620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 10:25:57.30 ID:24fLrA8I
七将に狙われて家康に匿ってもらったヘタレです
621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 11:35:04.27 ID:vMpwbjHL
それデマだってな
622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 13:09:17.50 ID:PNwm5RpP
伏見の徳川屋敷に逃げ込んだ話の出典がわかれば、このスレに収録してもいいかもね
623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 16:32:28.50 ID:V4JJPw4p
結果的には圧勝で終わったように思われてる関ケ原だが
秀忠遅参で内心かなり焦ってたろ糞漏らし
624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 21:02:48.98 ID:WwSHWUY/
>>623
昨今は関ヶ原の決戦に関しては、もう何がどうなっても東軍の勝ち、といった感じだな。
625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 22:13:35.16 ID:PNwm5RpP
関ヶ原って、小松山に立てこもった小早川秀秋救援のための後詰決戦だったんじゃないの?
626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 22:13:57.03 ID:eMYpu3XQ
いくらなんでも楽勝って事はないという感じで改めて研究した結果
以前よりも西軍がどうしようもなかった事が判明してより可能性がなくなるというオチ
悲しいなぁ
628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 02:23:30.24 ID:1F6Bnp81
>>626
吉川の位置が悪い
635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 14:49:27.23 ID:6cpqPOvC
>>628
今では毛利の東軍への寝返りは、毛利輝元自身の指示だったという
説まで出ている。
636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 15:23:18.87 ID:JiWMRDCO
岐阜城陥落の時点で負けを見越して生き残る為に動いてるしな
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コメント
人間七七四年 | URL | -
この八十島は関ヶ原で島津を激怒させた人の子供だった気がする
( 2017年02月11日 17:17 )
人間七七四年 | URL | -
こないだしばりょの関ヶ原を買って読んでみたけど
八十島さんが家康に秀吉の死去を伝えている場面が確かにあったな
家康党の浅野長政を陥れるために、長政には「(秀吉の遺言どおり)内緒にしておく」
といっておいて、こっそり三成は八十島を遣わしたって。
( 2017年02月11日 17:29 )
人間七七四年 | URL | -
おお、関ヶ原で行方不明になったものだとばかり思ってたが藤堂家に仕えたんだ
石田家の家臣の再就職率は高いな
( 2017年02月11日 19:15 )
人間七七四年 | URL | -
石田家から藤堂家へは他にも蒲生郷舎や磯野平三郎が再仕官してるな
( 2017年02月11日 20:42 )
人間七七四年 | URL | -
司馬は嘘が多いから気を付けるべし
( 2017年02月11日 23:24 )
人間七七四年 | URL | -
司馬史観とは言うけど、俺が言いたいのはそうじゃなくて
関ヶ原書くときに司馬がこれらの文献を取材したんだろうなってことを言いたかったのよ。
分かりにくい文章だと自分でも読み返して思ったけどさ
( 2017年02月12日 00:57 )
人間七七四年 | URL | -
三成さん高虎さんは共に近江出身だし
江戸期に入ると家臣団がわりとオーバーラップする印象
でも京極系か浅井系かで微妙に違うんだったか
( 2017年02月12日 12:20 )
人間七七四年 | URL | -
しかし島津家の対応を見ても、こんなうっかりさんが良く三成の重要な職に付いていたと思うw
普通あの戦闘民族相手に馬上からの物言いなんてしたら、どうなるか位分かってたろうに
当然その逸話の八十島さんへの島津の対応も「そりゃそうなるわ」だけどw
( 2017年02月13日 16:11 )
人間七七四年 | URL | -
家光の側室のお振の方の祖母は石田三成の娘だったり(お振の方が三成のひ孫)
( 2017年02月14日 11:19 )
人間七七四年 | URL | -
さらに、春日局の補佐役であった祖心尼は、お振りの方の母方の祖母で、また、祖心尼自身も出家した石田三成の子の重家に帰依していたりとこの方面で家光の周囲には石田三成の関係者がいる。
春日局が謀反人とか敵対者の関係者の何がいけないんでしょうか? という方針だったかも。
( 2017年02月14日 11:43 )
人間七七四年 | URL | -
西軍を取り仕切ってた割には毛利も島津も小早川も思うように動かなかったなw
( 2017年02月14日 18:55 )
人間七七四年 | URL | -
島津は元々東軍だし…(そこら辺の逸話がどこまで本当かは置いといて)
それがなくとも、兵数がさほど多くなかたった上に、西軍首脳陣って訳でもなかった島津をその二つと並べるのはちょっと違うような
( 2017年02月14日 20:48 )
人間七七四年 | URL | -
※12
同感。戦力的にも島津家があの時点で重要な立ち位置と見てる歴史家は居なかったはず。
島津家は単なる加勢した軍勢の一つでしょ?精々局地戦程度の活躍。
それに毛利家も吉川家が通せんぼして居る以上、下山して加勢も出来ない。
また、西軍各大名達は各陣地での戦いに終始している以上、動くも動かないもない。
そこへ幾人かが内応までしてれば尚更だ。
( 2017年02月15日 00:02 )
人間七七四年 | URL | -
島津に対しては三成の合渡川の戦いでのやらかしも尾を引いてそう
( 2017年02月15日 07:31 )
人間七七四年 | URL | -
※14
あれは戦力的にも状況的にも止むを得なかったでしょ
( 2017年02月15日 12:13 )
人間七七四年 | URL | -
※15
楽観視し過ぎの作戦ミスでしょ
その上、窮地の島津氏を見捨てるようなことしていざ自分の時は助けてくれでは…
( 2017年02月15日 12:25 )
人間七七四年 | URL | -
まあ常に先手を打てる立場の西軍が大垣近辺で戦力不足に陥るのは失態だな。
それはそうと島津逸話が本当にあったのかは諸説あるみたい
( 2017年02月15日 12:43 )
人間七七四年 | URL | EybeWf1w
※11
ごく一部の三成信者にいわせると、反乱の首謀者は文字通り毛利輝元で、三成は上杉征伐の準備をして東進しようとしたけど毛利に阻まれてやむなく西軍に加わったらしいからね
他家を動かせるわけないよ
で、戦後に家康と輝元の取り引きで三成が首謀者にされて毛利の家は残ったんだってさw
( 2017年02月15日 21:24 [Edit] )
人間七七四年 | URL | -
※16
所謂、神の視点で全てを結果論だけで言うだけならなら誰でも後から何とでも言えるでしょう
まさか岐阜城があんなにも早く落ちるなんて思わないだろうしw
( 2017年02月16日 16:25 )
人間七七四年 | URL | -
※18
そういう人もいるんだ
三成好きって>>618みたいなのばっかりだと思ってたわ
( 2017年02月17日 21:44 )
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