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“公方絶ゆれば吉良継ぎ、吉良絶ゆれば今川継ぐ”

2017年03月02日 18:56

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/02(木) 02:45:07.35 ID:Erhdus88
心省よりこの方、(今川家は)代々公方家の族臣として、武功の将種であるが故に世々
公方の御懇志を受け、戦国の最中にも世を奪われず威勢は甚だ盛んなので、

武恩に誇るのみならず、弓馬の道は言うに及ばず、和歌、連歌、蹴鞠、茶湯の事までも
この家には名人が多く、その家風は他より優れて、代々器量の臣下は少なくない。古き
高家であればこそである。

それ故、世俗の諺にも、“公方絶ゆれば吉良継ぎ、吉良絶ゆれば今川継ぐ”と言われて
いるのである。もっとも、さもあらんことではなかろうか。

心省入道より七代の後胤・今川五郎氏親、後には上総介と号す。氏親は先祖に劣らぬ
名将であって、戦国の時代に巡り逢い、駿河・遠江2ヵ国を領知して、

三河国をも大半は切り従え、あまつさえ戦国の世の一統を志し、公方家を再興せんが
ために、上洛の望みを持っていた。尾張の守護代・織田一党は主君・武衛(斯波義達。
左兵衛佐)の命を受けて今川に敵対し、三河を争い、合戦に年月を送るところで、

氏親はいつしか病死した。増善寺というのがこれである。その子・氏輝は早世した。
臨済寺がこれである。氏輝は実子がいなかったので、その弟の禅僧で、善徳寺に
いたのを還俗させて家督を継がせ、これを今川治部大輔義元と号す。

義元はよく父の志を継ぎ、よく父のことを述べ、文武に達した名将なので、なんとしても
三河・尾張の両国を切り従え、上洛せんと心掛けていたところ、三河岡崎の城主・松平
三郎清康は、幸い今川の味方となって尾張へ向かって敵対し、たびたび合戦に及ぶ
ことがあった。

ついに天文4年乙未12月、清康は大軍を率いなさり、織田筑前守が籠る尾張森山の
城を攻めなさった時、清康はにわかに卒去なされたので、たちまち三河の諸勢は森山
を退陣して、分国へ引き返した。その折、尾張の将・織田備後守信秀は、

筑前守の急を救い、かつまた、先君・武衛を助けて三河を治めようと自身で8千の人数
を率い、三河伊田の郷まで相働き一戦を遂げ、青山、植村、林、高力父子を討ち取った。

――『織田軍記(総見記)』



688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/02(木) 02:59:26.81 ID:Q1IiyxCV
当時の織田家に8000も動員できたんか
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    武衛家がvs今川で失敗しなかったら果たしてどうなっていたんだろうか
    16世紀後半に織田家と井伊家が馬を並べて戦ってたりしたのかね

  2. 人間七七四年 | URL | -

    当時の織田家は信秀が完全に支配していたわけじゃないが、
    三河まで勢力を伸ばしており、普通に今川より大国。八千くらい余裕。

  3. 人間七七四年 | URL | -

    斯波氏の名前を出して尾張国中に頼み勢したんやろね。信秀独力の兵力じゃないね。

  4. 人間七七四年 | URL | -

    ※3
    信秀は義統を無下に扱わなかったし、義統も信秀に合わせて伊勢守家や因幡守家に動員をかけてたからあり得る話だね。

  5. 人間七七四年 | URL | -

    16世紀の弾正忠家は斯波家のお気に入りだからな
    信秀はもちろんうつけ時代の信長ですら伊勢守や大和守より信頼されてた感ある
    まあ最終的には義銀が自爆しちゃうわけだが

  6. 人間七七四年 | URL | -

    壬申の乱のときに2万の軍を出した尾張。
    誇張があるだろうが、8千なら自領+援軍で農兵を動員すれば普通にできたでしょう。

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