平戸広前院、壱岐覚音寺、田平弥勒寺、城下正安寺、誓願寺等鐘之事

2017年03月10日 13:07

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/10(金) 00:57:59.00 ID:B06BHJSI
平戸広前院、壱岐覚音寺、田平弥勒寺、城下正安寺、誓願寺等鐘之事

 天保甲午に侍臣の父が古談を言ったとして話した。
〔以下の文は他人が聞きやすいように記してある。〕

城下の町中にある七郎権現という祠は大きな宇である。
その祠前に道を隔てて海辺に船着きの石段がある。
法印公(松浦鎮信)が朝鮮へ御出陣の時はここから御船を出された。
この時祠の傍らにある別当広前院の門を顧みると、撞鐘が懸けてある。
公は軍吏に命じて
「かの鐘を銃丸とすべし」
とおっしゃられた。
〔予が思うにこの銃丸はいわゆる唐金丸(からかねだま)であろう。
堅物を貫ける利点がある。朝鮮着岸のとき、兵達の利となるように慮られたのであろう。〕

 これから公の鋭志を見ることができた。
この話を聞き、近頃かの侍臣が広前院の門を視たがその門は今日の物ではなく、
甚だしく古色であった。しかし懸鐘の鉤はなお衡門に存在していた。
鐘を取った後からまた年月を経てそこにある。この門の安否は知らないと。

 また不動院〔この僧は平戸の生まれで、久しく壱岐の某寺に住んでいた〕が話では
今壱岐の覚音寺〔立石村〕にある鐘は、法印公は朝鮮に持っていかれた広前院の物だという。
なぜ壱岐にあるのかというと御帰陣のとき混雑だったためだという。ならば銃丸の話はまた一説であろうか。
 少年の時に広前院に仮住まいしていた者に聞いても、前説のようであった。
これはかの寺で言い伝えだという。
また、懸鉤はかの古門を修造するときに取り離したときに、
そのころの住僧がよく心得ていて古い例によってもとのように打たせたという。

 またある者の話では領内の田平村の弥勒寺という寺には、領内の数里隔てた相神浦真法寺という寺の鐘があり、これも朝鮮帰陣の時のことと言い伝わっている。皆の混雑の有様が想われる。

 城下の正安寺という寺は古き祖先公が開基の寺である。
この鐘も朝鮮に持って行かれたが、この寺の銘がある鐘は今日向国にあると聞いたので、
そこの島津淡州に頼んでかの国に問うた。
何八幡とかいう社頭馬場がある辺りの寺に、
正しく平戸島正安寺と銘がある鐘があると答えた。
これらは元の場所と違い所に行き、島津氏が手に入れる結果となった。

 また城下誓願寺という浄土宗も古い寺である。
この寺に今ある鐘は大きな物であるが、長州吉田郷何々の鐘とか銘がある。
また誓願寺の鐘はいずれかにあると。
『扶桑鐘銘集』かに書いてあると思われる。
これは暗記なので定かではない。
この寺の鐘も古寺のことゆえ、朝鮮の役に持って行ったものの一つであろう。

(甲子夜話三篇)



653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/10(金) 11:40:36.45 ID:gLZd/NjL
メチャクチャですがな w
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