704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/28(火) 05:09:45.11 ID:aQunLHnl
明応年中の斎藤は法師武者で、斎藤持是院妙椿という。稲葉山の城に住んで武勇の名将だったが、
その心ばえも優美で、和歌・連歌にも名を得ていた。この時、同国郡上の城主・東野州平常縁や、
その他に宗祇法師、または三条逍遙院藤原実隆公などとその遊びを同じくして歌道で相交わった。
その頃、隣国の近江では両佐々木の仲が悪く合戦に及び、互いに斎藤を頼みにした。両佐々木と
いうのは六角家と京極家のことである。斎藤妙椿が六角左京大夫高頼と一味して京極を攻めると、
京極大膳大夫高清は一戦に打ち負け、その家臣が浅井を頼んだことにより、
浅井と六角はまた合戦に及んだ。しかし浅井は一身の微力により利運を開き難いため隣国のよしみ
を通じて越前の守護・朝倉を頼んだ。朝倉は同心して加勢し、浅井と両家の勢を合わせ六角・斎藤
を敵にして度々の合戦となるも、妙椿は一度も勝利を得ずということなし。誠に無双の名将であった。
ここにまたその頃、松波勝九郎という京家の者がいた。この者はもともと山城国西の郊の民人で、
当時、牢人武者であったという。あるいは油売りの町人であるとも言い伝えている。いずれにせよ
卑賤の素性である。この勝九郎はふと美濃へ来て妙椿に奉公した。
一段と小賢しき者で武勇にも長じていたので、妙椿は厚恩を与えて、身近く召し使われた。次第に
出世して早くも人数をも預かり、度々の武功をあらわして、その忠節は他と異なっていた。またその
時代に当国今須の城主に長井という大名がいた。
多勢の者で斎藤に従わなかったのを、かの松波がすなわち妙椿へもその意を得て、一身の才覚を
もって長井一家を退治せしめ、すなわち今須の城主となり、その名を改め長井太郎左衛門秀元と
名乗った。誠ににわか大名であるが、松波は元来抜群の剛の者で、自家をよく治め、
諸侍諸民をも懐け置いた。かくて月日を経たうちに、斎藤妙椿は重病に侵され死去した。嗣子なき
をもって家中は別れ別れになったが、秀元は押し掛けて切り従え異議を言う譜代の者を皆ことごとく
誅伐し、従う者どもはそのまま己の臣下にした。
さて斎藤の所領を収め、家を継いで名を変えて斎藤山城守利政と号した。後に剃髪して道三入道と
申したのは、この庄九郎秀元のことである。もとより武勇に長じ、その頃近国にも稀な程の荒者で
あった。それのみならず大欲無道で慈悲の心は少しもなかった。
しかしながら武勇の威は強く後には美濃一国を皆切り従え、あまつさえ近江の浅井、越前の朝倉、
尾張の織田を相手にして、戦に勝つことたびたびに及んだ。後には方々皆調停となって和睦した。
また、道三の舎弟を同国今須の城主にして長井の家を継がせ、これを長井隼人佐という。道三の
息女の1人は当国の守護・土岐大膳大夫頼芸に嫁がせた。その頃、国々の守護の筋目の人を
たとえ所領を離れても、その国の“御屋形”と称し、国人らは崇敬した。
この頼芸も同国の屋形で“貴人”と呼ばれ、婿ではあったが道三は頼芸をいぶかしく思って当国を
追い出した。道三の弟娘は信長公の御室家である。
――『織田軍記(総見記)』
明応年中の斎藤は法師武者で、斎藤持是院妙椿という。稲葉山の城に住んで武勇の名将だったが、
その心ばえも優美で、和歌・連歌にも名を得ていた。この時、同国郡上の城主・東野州平常縁や、
その他に宗祇法師、または三条逍遙院藤原実隆公などとその遊びを同じくして歌道で相交わった。
その頃、隣国の近江では両佐々木の仲が悪く合戦に及び、互いに斎藤を頼みにした。両佐々木と
いうのは六角家と京極家のことである。斎藤妙椿が六角左京大夫高頼と一味して京極を攻めると、
京極大膳大夫高清は一戦に打ち負け、その家臣が浅井を頼んだことにより、
浅井と六角はまた合戦に及んだ。しかし浅井は一身の微力により利運を開き難いため隣国のよしみ
を通じて越前の守護・朝倉を頼んだ。朝倉は同心して加勢し、浅井と両家の勢を合わせ六角・斎藤
を敵にして度々の合戦となるも、妙椿は一度も勝利を得ずということなし。誠に無双の名将であった。
ここにまたその頃、松波勝九郎という京家の者がいた。この者はもともと山城国西の郊の民人で、
当時、牢人武者であったという。あるいは油売りの町人であるとも言い伝えている。いずれにせよ
卑賤の素性である。この勝九郎はふと美濃へ来て妙椿に奉公した。
一段と小賢しき者で武勇にも長じていたので、妙椿は厚恩を与えて、身近く召し使われた。次第に
出世して早くも人数をも預かり、度々の武功をあらわして、その忠節は他と異なっていた。またその
時代に当国今須の城主に長井という大名がいた。
多勢の者で斎藤に従わなかったのを、かの松波がすなわち妙椿へもその意を得て、一身の才覚を
もって長井一家を退治せしめ、すなわち今須の城主となり、その名を改め長井太郎左衛門秀元と
名乗った。誠ににわか大名であるが、松波は元来抜群の剛の者で、自家をよく治め、
諸侍諸民をも懐け置いた。かくて月日を経たうちに、斎藤妙椿は重病に侵され死去した。嗣子なき
をもって家中は別れ別れになったが、秀元は押し掛けて切り従え異議を言う譜代の者を皆ことごとく
誅伐し、従う者どもはそのまま己の臣下にした。
さて斎藤の所領を収め、家を継いで名を変えて斎藤山城守利政と号した。後に剃髪して道三入道と
申したのは、この庄九郎秀元のことである。もとより武勇に長じ、その頃近国にも稀な程の荒者で
あった。それのみならず大欲無道で慈悲の心は少しもなかった。
しかしながら武勇の威は強く後には美濃一国を皆切り従え、あまつさえ近江の浅井、越前の朝倉、
尾張の織田を相手にして、戦に勝つことたびたびに及んだ。後には方々皆調停となって和睦した。
また、道三の舎弟を同国今須の城主にして長井の家を継がせ、これを長井隼人佐という。道三の
息女の1人は当国の守護・土岐大膳大夫頼芸に嫁がせた。その頃、国々の守護の筋目の人を
たとえ所領を離れても、その国の“御屋形”と称し、国人らは崇敬した。
この頼芸も同国の屋形で“貴人”と呼ばれ、婿ではあったが道三は頼芸をいぶかしく思って当国を
追い出した。道三の弟娘は信長公の御室家である。
――『織田軍記(総見記)』
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コメント
人間七七四年 | URL | -
盛大にあいだがぶっ飛ばされているが、それくらい美濃の政情はごちゃごちゃなんだな。
斎藤妙椿の死(1480年)以後、土岐氏は家督争いを繰り返してるから、ややこしいね。
( 2017年03月28日 19:25 )
人間七七四年 | URL | sSHoJftA
妙椿の家来の石丸さんと道三の話がごっちゃになってるのかな?
( 2017年03月28日 20:01 [Edit] )
| URL | mQop/nM.
妙椿の後を継いだ妙純の頃とかも織田家と結構やりあってたけど、あまりいい結果じゃなかったから省略したのかな。
( 2017年03月29日 00:06 [Edit] )
人間七七四年 | URL | -
戦国初期の美濃はマジでややこしいからなあ
研究が進んでなかった時代じゃ妙椿から道三の時代がごっちゃになっても無理はない
※3
その時期は織田と主君斯波もかなり苦しそう
船田合戦以降尾張が美濃の内乱に巻き込まれたせいで
斯波領だった遠江への今川の攻勢が本格化してもなかなか対処できなかったみたいだし
( 2017年03月29日 15:16 )
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