この人にこそ、必ず国郡を保つべき威がある

2017年04月23日 16:54

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/23(日) 02:16:34.28 ID:rgVM3E7M
同年(天文18年)2月下旬より、備後守殿(織田信秀)は疫病を患いなさった。
療治祈祷の効果もなく、同3月3日夜、ついに末森の城で病死なさった。

行年42歳。上下万民は愁嘆追悼し合った。法名を桃巌居士と号す。曹洞家
の禅宗である。備後守殿は存命の時に一宇を建立し、これを萬松寺という。

すなわち、この寺で信長公より、たくさんの施行を引き、関東上下の会下僧
3百人余を集めなさり、美々しき法事を行いなさった。

嫡男なるが故に、信長公は今年16歳なれども、すなわち家督を継ぎなさった。
右の法事の時、萬松寺へ参詣され、林、平手、内藤、青山が御供に参った。

次男・勘十郎信行は武蔵守と号す。これも同じく参詣なさり、御供には家臣の
柴田権六(勝家)、佐久間大学(盛重)、佐久間次右衛門、山田弥右衛門、
長谷川宗兵衛らがいた。また聴聞見物のために貴賎上下が群がり集まった。

信長公は焼香に出なさった。その出で立ちは甚だ異形であり長柄の刀と脇差
をみご縄に巻いて差し、袴も着なさらず髪は茶筅に巻き立てて結いなさった。

仏前へ出でなさると、信長公は抹香をくわっと取り掴み、仏前へ投げ掛けて
帰りなさった。勘十郎殿は折り目高の袴に肩衣で、あるべき体の装束だった。

見物の諸人らは皆、信長を指差して、「これはまた例のうつけ者よ」と言って、
とりどりに批判した。しかし、その中に筑紫往来の客僧が1人いて、

「何と見ていたのだろうか。この人にこそ、必ず国郡を保つべき威がある」と、
相し申したということである。

さて、信長公は末森の城を勘十郎信行へ進ぜなさり、柴田、佐久間以下歴々
の臣下を付け置きなさった。また信長は自ら改名して上総介と名乗りなさった。

――『織田軍記(総見記)』



750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/23(日) 07:15:38.30 ID:p+EnUnNt
上総守に改名したんじゃないのか

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/23(日) 07:16:17.37 ID:p+EnUnNt
改名じゃなかった、名乗ったんじゃなかったのか
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    有楽流織田家の当主(女性)が信秀の命日が三月三日なので当家ではひな祭りをしないしきたりがあると言ってたな。
    当主が子供のころ、どうしても雛人形がほしくて買ってもらったところ、直後にデパート内で人形が置引きに遭って
    ひな祭りはあきらめたそうな。

  2. 人間七七四年 | URL | -

    ※1
    それは親が雛人形をデパートに戻したのを置き引きにあった ってことにしたのでは無いのかな?

  3. 人間七七四年 | URL | -

    修羅の刻に信秀葬儀のシーンあったな

  4. 人間七七四年 | URL | -

    原哲夫先生が連載中の北斗の信長でも描かれてたが、
    歌舞いた装束で大量の抹香を参列者にブチまけて招いた300人の遊行僧を通じてうつけの噂を広める策と父を早死にに追いやった身内への憂さ晴らしを兼ねたイベントとして描いてたな

  5. 人間七七四年 | URL | -

    ひな祭りには元々厄払いの意味もあったんだからやってもイイと思うけどなぁ。

  6. 人間七七四年 | URL | -

    はなさかじいさんとは関係なさそうだな

  7. 人間七七四年 | URL | EybeWf1w

    厄払いはひな祭りというよりも桃の節句そのものではなかったっけ?
    とある小説だと武則天だかだれだかが桃の枝で作った弓で蟇目みたいなことしてたけど実際はどうだったんだろうか

  8. 人間七七四年 | URL | -

    ※2
    どうなんだろうな

    名家じゃしきたりは大事だよな。まぁもっぱら厄払いとしてされているね。

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