生きて五鼎に食まずんば、死して即ち五鼎に烹られん!

2017年04月29日 15:00

名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/29(土) 02:52:33.56 ID:piYyeD9Z
荒木村重は俵藤太秀郷の末葉・宇治次郎義定の9代の後胤である。曽祖父・安芸守は、
大永7年の桂川合戦(桂川原の戦い)で道永(細川高国)の陣に従って戦死した。

その子・荒木大蔵大輔は丹波国に住んだが、摂津へと越えて豊島郡坂根というところに
居住した。その子は信濃守義村と称し、その頃、当国の六人衆の中で随一の人だった。

ところが信濃守は中年に及んでも子がいないので、これをいたく憂いて夫婦一緒に同国
中山の観音へ参籠して、12の灯火を掲げて28品の経を転読し、

「哀れ願わくは1人の男子を授けなさり、その子が成人の後には、天下に威名を振るう
弓取りとなしてください!」と肝胆を砕き、心根を投げて祈祷した。

すると不思議なことに、7日に満ずる暁(七日参籠)に至って、義村は12の灯火の光の
中から明珠が飛んで来て、彼の女房の懐中に入るという夢を見て目を覚ました。

夫婦は大願成就したと喜びの眉を開いて帰ったところ、女房はやがて妊娠し、それから
15ヶ月目というのに子が出生した。その子は世に優れて大きく逞しい赤子であった。

夫婦はたいへん喜んで、12の灯火の光から出た玉の男子であるからとして“十二郎”
と名付けた。後に弥介と称し、また信濃守と改め、しまいには攝津守と称した。

十二郎は幼少の時、その身長は年齢よりもはるかに伸びて力強く、常に弓馬の芸術を
好み、槍や太刀の勝負を試みていた。しかし、この子は世にも優る大食であったので、

父・義村は彼に向かい、「汝は食を費やすことについては、甚だ余人以上だ。その益は
何かあるのだろうか?」と、問うた。村重はこれを聞き、「武将たる者は筋力無くては

叶いますまい! 槍を突いたり、太刀を打つにしても、余人以上の兵具を持てばどうして
勝てないということがありましょう!」と言い、その場をズンと立ち、

側の碁盤を掻い掴んで引き寄せると、義村をその上に乗せて盤の小角を取り、座敷の
隅の柱どもを3遍数えて廻りつつ、もとの座に置いたので、父は大いに感心し、

「汝は中山の観音に祈ってもうけた子なれば、ひとえに千手の力を受けたのである。
『好堅地底に萌し、芽百囲を生ず』と言われている。今年12歳でこのような大力で

あれば、これからは項羽の山を抜き、樊カイが門を押す力をも得ることであろう。大食
するのも道理であるな」と、微笑して喜んだ。すると村重は、

「大食多力だけで、どうして益ありと申せましょう。“貞松は巌嶺に産す”と言われています。
いま乱世に生まれたことこそ幸いです。悪逆の国賊を誅し、数カ国を領してのちにこそ、

我が大力の益を現すでしょう。生きて五鼎に食まずんば、死して即ち五鼎に烹られん!」
と言ったので、父はますます歓喜し、寵愛は日頃に増益した。

――『陰徳太平記』



865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/29(土) 08:21:02.75 ID:QYwFUQZ/
後に道糞となるとは思いもしない頃の話である

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/29(土) 08:27:52.93 ID:XoVJM2Bt
一瞬、荒木大輔がなにゆえ戦国時代に?と思ってしまったのは内緒
スポンサーサイト


コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    若い人たちは荒木大輔なんて知らないんじゃないかな

  2. 人間七七四年 | URL | -

    坂本隼人正っていそうと思ったが勇人だったか

  3. 人間七七四年 | URL | -

    ※2
    名前の武将っぽさで前田幸長の右に出るものはおるまい

  4. 人間七七四年 | URL | 3aXRcdxk

    どんな人間にもいい時期はあるもんなんやなって

コメントの投稿

(コメント編集・削除に必要)
(管理者にだけ表示を許可する)

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://iiwarui.blog90.fc2.com/tb.php/10728-7bd70cf2
この記事へのトラックバック