「フロイス日本史」から、戸次川の戦い

2017年05月30日 18:11

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/29(月) 21:31:52.86 ID:pxsQt+cT
(豊後国主の)嫡子は、薩摩軍が攻めてきた時に身を守り得るために、
他の二名の主将(仙石秀久長宗我部元親)とともにウエノハル(上原)と称するある場所に一城を築くことに決した。
だが彼らは心して真面目に築城の作業に従事しなかった。
彼らの不用意は甚だしいもので、饗宴や淫猥な遊びとか不正行為にうつつを抜かしていたので、その城は笑止の沙汰であった。
したがって(薩摩軍が来週した時に彼らが)助かることなど思いもよらないことであった。

ところで国主フランシスコの息子パンタリアン(田原)親盛は、司祭に対して、
もし府内で何事かが起こった場合には、司祭は家財を携えて城(妙見城)に身を寄せるようにと伝えていた。

薩摩の軍勢は惰眠をむさぼることなく、攻撃力を強めながら、漸次豊後に進入して領地を奪っていった。
豊後の指揮官たちは、常軌を逸した振る舞いによってますます油断の度合いを深めていた。

本年一五八七年の一月十六日(西洋暦)、薩摩の軍勢は、
府内から三里離れたところにあるトシミツ(利光宗魚)と称するキリシタンの貴人の城を襲った。
城主は府内からの援助を頼りに力の限り善戦した。
だが敵は攻撃の手を緩めず、ついに武力によって城内に進入し、その城主、ならびに多数の兵士を殺害した。

府内にいる味方の勢は、(利光の)城が占拠されているかどうか確かなことを知らないまま、
赴いて囲みを解くべきかどうか評定を続けていた。
結局、彼らは出動することに決め、栄えある殉教者聖フィビアンと聖セバスティアンの祝日に府内を出発した。

府内からは、仙石がその兵士を率い、土佐国主長宗我部とその長男がその兵士を伴い、
さらにパンタリアンも兵を率い、その他豊後の特定の殿たちが出発した。
清田と高田の人々に対しても出動するよう命令が出された。

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/29(月) 21:32:45.50 ID:pxsQt+cT
薩摩勢は、それより先(豊後勢の動静を)知らされていたらしく、余裕をもって策を練り、
準備を整え、一部少数の兵士だけを表に出して残余の軍勢は巧妙に隠匿していた。

豊後勢は、大きく流れの速い高田の川に到着し、
対岸に現れた薩摩勢が少数であるのを見ると、躊躇することなく川を渡った。
そして豊後勢は戦端を開始した時には、当初自分たちが優勢で勝っているように思えた。
だがこれは薩摩勢が相手の全員をして渡河させるためにとった戦略であった。
渡し終えると、それまで巧みに隠れていた兵士たちは一挙に躍り出て、
驚くべき迅速さと威力をもって猛攻したので、
土佐の鉄砲隊は味方から全面的に期待をかけられていながら鉄砲を発射する時間も場所もないほどであった。
というのは、薩摩軍は太刀をふりかざし弓をもって、猛烈な勢いで来襲し、鉄砲など目にもくれなかったからである。
こうして味方の軍勢はいとも容易に撃退され敗走させられて、
携えていた鉄砲や武器はすべて放棄し、我先にと逃走して行った。

豊後国の人たちは、河川の流れについて心得があったから助かったが、
仙石と長宗我部の哀れな兵士たちは他国の者であったから、浅瀬を知らず溺死を余儀なくされた。
こうしてその合戦と破滅において、二千三百名以上の兵士が戦死したと証言されている。
彼らの中には、土佐国主の嗣子や、かつて阿波の領主であった十河殿、その他大勢の貴人や要人が含まれていた。

薩摩勢は、その日の午後には府内から四分の一里の地点にまで到達し、
その途中にあったものをことごとく焼滅し破壊した。




「フロイス日本史」から、戸次川の戦いについての記述である。


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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    沖田畷の記事でも島津は銃が少ないって強調されてるんだよね?
    一般的には島津は戦国トップクラスに鉄砲重視のイメージが定着してるけどこの後一気に増えたってこと?

  2. 人間七七四年 | URL | -

    良く分からんな
    朝鮮出兵では義弘が「朝鮮人にはとにかく銃だ」っていってる書状があるみたいだけど

  3. 人間七七四年 | URL | -

    鉄砲の射撃から打物に持ち替えて突撃するのが義弘の戦術だというから
    その最終局面だけを切り取るとこういう表現になるのかもしれん
    島津では鉄砲は士分の得物ともいうし足軽に標準装備させてた所と比べると案外少なかったのかも

    とはいえネタ元の徳田邕興は18世紀の人なので、ほんとに義弘がそう戦ったかはわからないが

  4. 名無し | URL | -

    この時の仙石は歴戦の司令官とは思えないほどの失態だけどなんか理由でもあるのかな。

  5. 人間七七四年 | URL | -

    ※4
    本来、仙石の役目は秀吉本隊が到着するまで大友や四国勢と共に防衛するはずだった

    が、諸々の事情により大友義統が独断で出兵

    見殺しにするわけにもいかず、やむなく仙石出撃

    戸次川で大惨事発生

    大体こんな流れだったかと

  6. 人間七七四年 | URL | -

    この戦いでの最大被害者は長宗我部家だと思うけど
    ここで信親が生き残っていたら、長宗我部家は生き延びたのか
    それともやはり関ヶ原で改易されることになったのだろうか

  7. 人間七七四年 | URL | -

    盛親と津野親忠との間にあったような家督争いが起きない
    →成り行き上で西軍についたとしても津野親忠との間は険悪ではないので
    藤堂高虎のとりなしを期待できる
    家臣が割れてないため親忠を殺した内紛も起きないだろう
    それに家康とは小牧長久手の戦いの時は同盟者だから
    ある程度パイプもあるはず
    元親もボケてないので元親生前に家康と懇意になっていた可能性は高い

  8. 人間七七四年 | URL | -

    戦って負けたことはまだしも、そのあと敗軍をろくにまとめないで逃げたのが大問題
    長宗我部や十河の家臣に恨まれて殺されそうになったとかでもあるんですかね

  9. 人間七七四年 | URL | -

    ※2
    それは李氏朝鮮ではまだ鉄砲の配備が進んでなかったから
    「音で驚く」的な意味合いだったような?

  10. 人間七七四年 | URL | EybeWf1w

    ※5
    最近では義統が勝手に出陣して仙石が追いかけたって見方に変わったの?

  11.   | URL | -

    それだと
    大友義統~史上最も失敗し挽回できなかった男~
    にしなきゃだめだな

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