ならばこれからは尚更に

2017年06月22日 15:45

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/21(水) 17:16:33.93 ID:QqZGxox/
立花飛騨守宗茂は一旦(徳川家の)御敵となったが、台徳公(徳川秀忠)の
御代に御許しを蒙り、旧領柳川11万石9千6百石を賜り、

入部してこの度の祝いの儀式として、家士の面々を饗応なされた。その席に
出て宗茂は物語りなされ、

「大昔に佐野源左衛門が本領を安堵されたのは罪無くして所領を失ったから
である。一方で私めは御敵となった者なのに、このように旧領を賜った。

これは誠にもって御厚恩である。されども一つには、当家の武勇は父・道雪
より以来、世に恥じること無く、

これらの事などを御賞翫されたのかも分からない。ならばこれからは尚更に
上下とも武備を忘れてはならない」

と仰せになった。

――『明良洪範』


スポンサーサイト


コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    江戸時代でも立花家の柳川藩は武術が盛んで有名で、特に槍術は「東の会津、西の柳川」と称されたり、
    九州内でも剣術の久留米、槍術の柳川、鉄砲の薩摩とうたわれてたらしいな

  2. 人間七七四年 | URL | -

    立花山城主時代から懇意にしていた博多の紅粉屋は
    宗茂が大名に復帰した棚倉にまでお届け物をしていたため
    田中吉政にばれて商い止めされたエピソードなど読むと
    宗茂は家臣だけでなく、商人をも引き付ける魅力があったのだな
    とつくづく感心する

  3. 人間七七四年 | URL | -

    紅粉屋を開いた後藤成常の父親は近江の佐々木六角家の家臣だったのが、六角家滅亡後
    明智光秀に仕えて山崎の合戦で戦死したため、一族が博多まで落ち延びて商家を開いたらしいね
    で、そこで知り合った宗茂に付いて柳川に移ったみたいで、
    宗茂が棚倉から柳川に戻った時は紅粉屋に宿泊したという話もあるね

  4. 人間七七四年 | URL | -

    え、博多からあんなド田舎まで宅配、、、
    と思う地元民。

コメントの投稿

(コメント編集・削除に必要)
(管理者にだけ表示を許可する)

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://iiwarui.blog90.fc2.com/tb.php/10826-dfc37372
この記事へのトラックバック