毛利元就の正親町天皇即位の御料献上とその影響

2017年10月04日 19:08

279 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/03(火) 23:26:18.41 ID:PQQbOlsn
明治維新に影響をあたえた仰徳大明神(毛利元就


毛利元就は毛利家にとって神君として崇められていた。
徳川家康が東照宮大権現なら、元就は仰徳大明神である。

毛利家中興の英主といわれる重就は元就の遺訓をまとめて「御教戒」として君主のありかたを照らす鑑とした。
やがて幕末、藩士中村清旭は安政二年(1855年)元就の遺訓を集大成して「大訓衍義」を著した。
これは元就の勤王精神を長州に植え付けることとなった。
というのも毛利元就は永禄三年(1560年)に財政難の為、即位式が出来なかった正親町天皇の為に
即位の御料として銀四十八貫を献上し即位式を挙げさせてあげたのである。

これが前例となり毛利家だけは、他の大名と違い
年末年始はもちろん朝廷の吉凶時にさいしても、朝廷への進献が許されていた。
そして石見銀山を永久的に毛利家が支配する為に皇室御料所として寄進し、毛利家が管理者として実権を握った。
これにより秀吉が天下を取ったあとでも秀吉は石見銀山には中々手が出せなかった。


元就が天皇への勤王あつく(打算的勤王という人もいる。まあないとは言えないでしょうね)
こういった経緯もあり激動する情勢に長州藩では藩の方針を以下とした。

第一に天朝への忠節
第二に幕府への信義
第三に祖先への孝道

すなわち天朝と幕府が対立した場合、天朝方につく下地は元就のころから出来ていたのである。


高杉晋作は第二次下関戦争の為の挙兵での檄文で
「御先祖洞春公の御遺志を継がせられ御正義御遵守遊され候…」
「洞春公尊霊を地下に慰め御両殿様(藩主敬親、元徳父子)の御正義を天下万世に輝かし奉り…」と掲げた。

洞春公は元就の法名。
つまり元就を範に攘夷決行、王政復古を訴えたのである。

奇兵隊の最初の作戦は戦局には全く影響のない安芸郡山攻略。

目的は唯一つ、毛利元就の墓所の奪還である。



280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/03(火) 23:34:11.14 ID:KBj7WAN5
大江広元の子孫が武家政権を倒して王政復古を図るとは
祖先は天皇と幕府の次だから気にしてなかったんだろうけど

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/04(水) 10:51:49.08 ID:4vJxH0l7
すべては「そうせい!」の一言で

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/04(水) 16:18:09.71 ID:Kbab0n5s
>>279-280
歴史の流れって面白いなー
毛利と島津が幕末にあんなことになるとは権現様でも気づくめぇ
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    本スレ※282の言う通り歴史の流れは面白いよね。
    本スレ※280の話も承久の乱の時京都進軍を主張したのが大江広元だったてのが有るからねえ。
    でその時の功で三河を得たのが足利氏でそれで吉良や細川や今川の三河の地名由来の家が出来るし、その三河から新田の子孫名乗る家が出て来て将軍になるのだからねえ。

  2. 名無しさん | URL | -

    >すなわち天朝と幕府が対立した場合、天朝方につく下地は元就のころから出来ていたのである。


    あのぉ、蛤御門の変のときを見るに、単に「長州は尊皇派だから」とは幕末の行動原理を説明できないと思うんですけど…

  3. 人間七七四年 | URL | -

    ま、結局後付けって言うか言い訳として使われたって事なんじゃないの?
    それほど矛盾してるとも思えないし、禁門の変の時も長州主力は尊王攘夷派でしょ。

  4. 名無しさん | URL | -

    >禁門の変の時も長州主力は尊王攘夷派でしょ。

    孝明天皇の御意志に反した上に、御門にむかって発砲しても尊皇というなら、
    2・26起こして昭和天皇の股肱之臣を「誅滅」して天皇親政をめざした昭和初期の皇道派も尊皇の志士ですなぁ
    #実際はどっちも天皇ブチ切れ

  5. 人間七七四年 | URL | j7kPgX2Q

    そんで鳥羽伏見では幕府が京都を攻めることになるというね
    御所の遥か手前で敗北したけど
    どっちも主観では君側の奸を除くのが目的で、どちらも由無きことでもない
    あと孝明帝は蛤御門以前から激おこ
    天皇に会って意思を確認するなんて藩主クラスでも無理な時代だから下が暴走すんのよね
    大久保がそれ反省して政権から早々に公家排除したけど

  6. 人間七七四年 | URL | -

    名目は何であれ、朝廷利用して、政治権力を握ろうとしたという点では元就も、幕末も変わらんね

  7. 人間七七四年 | URL | j7kPgX2Q

    ※6
    それは鎌倉以来普遍的な事実だが、幕末の特殊性の一つがそこにあるのに普遍的というだけの感想で終わるのは勿体ない。
    そもそも尊皇と攘夷と倒幕はそれぞれが独立できる思想で、全て無条件にイコールで結べるものではない。
    例えば新選組は終始幕府側だったが攘夷論を建白してるし、幕府首脳は阿部正弘以来少なくとも形式上は尊皇だったが攘夷派が政権を握ったことはない。
    時系列的には、尊皇と攘夷が結びついたあとも、倒幕に至るまでにはかなりのタイムラグがある。
    攘夷と一言で行っても小攘夷もあれば大攘夷もあるし、倒幕にしても大政奉還だって大きく見れば倒幕の一つの形。
    (だから幕府内でも幕権派が主導権を握っていた江戸から鳥羽伏見は始まった)
    そこを掘り下げると、航海遠略策を上梓した長州藩の首脳部がなぜ一挙に攘夷に転じたのかとか、幕府内部における迷走と一会桑政権の成立と諸侯会議派との離合集散、なぜ薩摩が幕府と手を切ったのか分かってくる。

    毛利に限った話をすると、長州藩が最初から倒幕を考えていた可能性はゼロに等しく、航海遠略策を放擲し、一夜にして攘夷に転じた背景には確かに尊皇思想が関係しているし、その背景には本文の元就の事象も影響している。
    詳しくは文久二年の長州藩世子公御前会議について調べれば立派な論文が出てくるので割愛する。
    まぁそもそも、聊かなりと反幕の傾向があった藩だと、尊皇の比重が高くなる傾向は江戸幕府初期からあったんだけどね。
    有名どこだと尾張徳川初代徳川義直の遺命である、「王命に依って催さるる事」とかね。

  8. 人間七七四年 | URL | -

    歩く信用手形の長男を失って財政再建に苦労した話しがある位だし、お金の価値というものの強さを元就は知っていたんじゃないかと思えてくる。
    それが良い形で毛利家の格を上げたんだとすれば、隆元ってすげえなぁ。
    死んでも毛利家救ってる。

  9. 人間七七四年 | URL | -

    ※7
    幕府の一番の身内たる御三家中、水戸と尾張が尊皇派、ということは、尊皇派=反幕府ではないという証しですね。
    まあ、実際天皇あっての征夷大将軍なんで、幕府の権威も尊王思想あってこそなのは理解できます。

  10. 人間七七四年 | URL | -

    禁門の変は君側の奸を除くというものにすぎんよ。
    孝明天皇うんぬん言っている人もいるけど、孝明天皇は幕府を信頼はしていたが、
    それは幕府は攘夷するといって孝明天皇をだましていた事が原因だったりする。
    実は幕府は攘夷する気がなかったことを知らなかった。だから攘夷派の連中は君側の奸を除くという理由で挙兵した。

  11. 人間七七四年 | URL | j7kPgX2Q

    鳥羽伏見の戦いも討薩表にある通り、君側の奸を除くってのが徳川方の大義だから面白い。
    禁門の変と鳥羽伏見で大義は変わらないのに攻守はそっくり変わってる。
    薩摩が京に陣取ってる点は変わってないけどw

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