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元親記による信親の最期

2017年11月07日 09:14

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/06(月) 17:46:34.12 ID:ewVS0Zz3
折角なので元親記による信親の最期の様子も

長宗我部軍も是非に及ばず陣触れをして、一足遅れて出撃したが、川を渡って
陣容も整わぬうちに、黒雲のように薩摩軍が押し寄せて来た。
年光城攻めを差し置き襲ってきたのだ。これが薩摩と土佐の史上初の激突である。
仙石軍は猛攻を避け、北方の豊前に退いた後だった。

群がり来る敵の中で、信親は馬を捨て四尺三寸の大長刀で八人を薙ぎ伏せ、
さらに刀を抜いて六人を切り据えた。
物の具の上から打ち合うので刀の刃はぼろぼろになっていた。
(信親は)辺りの敵を追い払って腹を切ろうとすると、多勢の者が走り寄り、
同じ場所で次々と自決した。
福留隼人(儀重)と細川源左衛門は元親のそばに駆け寄り、
この世の暇乞いをしてから命を絶った。

(中略)

討死した信親は二十二才だった。身の丈六尺一寸、平素は長船の名刀
三尺五寸の兼光を腰に差し、剣術に優れ、身のこなしの敏捷さは比類なかった。
走り跳びに二間を跳び越え、跳びながらこの刀を抜いた。
これほどの人なので、樊カイにも劣るまいといわれて、元親も最も期待していた。

信親がこの日帯びていた刀は、先年信長公に名をもらった時、その祝儀に
拝領した左文字の太刀であった。

(元親記)



249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/06(月) 18:09:41.59 ID:zLyaVyxg
>>247
信長、左文字の太刀とくると義元からぶんどったやつが思い浮かぶが
あれは別に伝わってるから他にもあったのかな

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/06(月) 19:47:28.06 ID:o4NOSjYb
信長に貰った太刀や着ていた鎧兜がボロボロになっていて凄まじかったらしいね
この時、権兵衛が大人しくしていれば後の歴史が結構変わっていたかな?

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/06(月) 20:16:18.73 ID:hnPtJm7D
>>248
年光じゃなくて利光だろう

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/06(月) 21:12:51.84 ID:ewVS0Zz3
>>251
一応原文ママだよ
まあよくある当て字だね
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0099-066306&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E5%85%83%E8%A6%AA%E8%A8%98%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&IMG_NO=62

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/06(月) 22:25:40.59 ID:JfPQ4w+X
>>250
関ヶ原のとき盛親じゃなくて信親だったらってとこか。なかなか渋いif

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/07(火) 04:16:34.83 ID:qysCJnfh
案外、旗幟鮮明にして最初から西軍参加でやっぱり関ヶ原戦場で壮絶な討ち死に遂げてそう。
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    >仙石軍は猛攻を避け、北方の豊前に退いた後だった。
    流石にそれはないだろう…と思うんだが。大敗後大逃げかましてくれたのは事実だけれども
    センゴク絶対許さねえからなぁという元親記編者の強い意志を感じる

  2. 人間七七四年 | URL | -

    まあ長宗我部滅んだ原因の一つだからな、信親の討ち死には、一番の原因は関ケ原の時、
    徳川家にたどり着けなかった使者だけど、山内家の様にちゃんとたどり着けてればなあ・・・・・

  3. 人間七七四年 | URL | j7kPgX2Q

    ただの印象だが、長生きしてれば立花宗茂・毛利秀包辺りの西日本ヒャッハー組と朝鮮征伐でマブダチになってそう

  4. 人間七七四年 | URL | -

    ことごとく討ち死にした人達のやり取りを
    後世の人がどうやって書くんだ

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