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旗返の姫塚由来

2017年11月28日 15:48

343 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/28(火) 15:16:04.32 ID:+NX5BKfl
旗返の姫塚由来

旗返城主江田隆連は、庄原の山之内氏に誘われて、ひそかに山陰の尼子氏と通じたことが発覚すると、毛利元就は山口の大内氏に救援を求め、1万数千の大軍をもって江田領に攻め込んできました。
天文22(1553)7月には隆連の家臣武田祝氏(たけだほうりし)の居城高杉城を全滅させ、その勢いで旗返城に攻め寄せてきました。
隆連は尼子軍の救援を唯一の頼りに1千1百の軍勢で籠城しました。

毛利軍は、要害堅固な旗返城を攻略するため、旗返城の麓、丸山(陣床山)に臨時の城を構え、食糧や水を断つ作戦にでました。
 隆連は、唯一の頼りだった尼子の援軍が来ないため、落城も覚悟したのであろうか。包囲されて間もなく、妻と娘(姫)に一人の家来をつけて、庄原の山之内まで逃がそうとしました。

 始め廻神(めぐりかみ)を通ろうとしましたが、この道は既に敵軍の手に落ちており、仕方なく加風呂谷(かぶろだに)を下って、掛田(かけだ)に降り、夜陰にまぎれて石原から寄国(寄国)を通り、山之内に逃げようとしました。
そして、掛田川の川端までたどり着きましたが、娘(姫)は身ごもっており、ここまで来て急に産気づきました。

 そして苦しみながらかわいい娘の子を出産しましたが、敵陣の中を潜んでの逃亡で体力も尽き果ててしまいました。
 兼ねてより父隆連から、途中逃げ切れぬ時は自刃せよと諭されていたこともあり、妻と娘(姫)赤子ともども、この地で自刃して果てました。

 後、邑人(むらびと)たちはこのあわれな人たちのために祠を建てて供養しました。この祠を「姫塚」と呼びこの一帯を「姫原」と呼ぶようになりました。
 旗返城は、水と食料を断たれ、終に10月になり城兵は夜陰にまぎれて逃亡し、落城しました。

     川西郷郷土史研究会”
(当地の看板より)



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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    高杉晋作の祖先はこれ以降毛利氏の家臣になったのかな

  2. 人間七七四年 | URL | -

    ※1
    元就の影武者、武田宗慶や安国寺恵瓊の安芸武田氏じゃなく、こっちの武田氏の系列だったのか

  3. 人間七七四年 | URL | -

    なんて悲しい逸話なんだろう。敵側に投降できる立場に無いのが余計に涙を誘う。
    旗返(山)城も標高よりも急峻な山肌が目立つお城ですね。
    登るだけでも苦労しそうです。

  4. 人間七七四年 | URL | -

    祝城は見に行ったけど、残っているのは神社を中心にした平地なんだよね。
    規模も小さな平城で籠城とか論外な作りだった。
    土豪の館ぐらいな規模。

  5. 人間七七四年 | URL | -

    ※3
    ちなみに江田隆連さんは出雲か尼子晴久の所へと落ち延びたと言う話もある様である…

  6. 人間七七四年 | URL | -

    何処の山城もそうなのですが、地元の教育委員会や保存会等が手入れしていないと、直ぐに落ち葉や木々で
    多い茂ってしまって、苦労して急峻な山道や登り坂を登りきっても何処がどうなってるのか分らないのが多いw
    最悪、暗い山中を彷徨うただの山登りで終わる・・・

    しかも最近では山を削ってマンション・アパートや住居の建売にしちゃうから、山城としての情緒がない

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