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武臣たる者の実義は汝にある

2017年12月26日 18:20

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/26(火) 17:42:20.57 ID:0CHlz54H
榊原式部大輔康政は、尾州小牧山御陣の節、豊臣秀吉の不義を誹謗し、所々に高札を立てた

『秀吉は織田家取立の臣でありながら、その主君の公達に敵し、神戸三七信孝を亡ぼし、
今度は北畠(信雄)殿に敵した。誠に八逆罪の者であり、これに与する者に、どうして
天罰が無いだろうか。』

これに秀吉は大いに怒り
「榊原小平太を生け捕った者は、卑賤凡下を問わず、千戸侯を以ってこれを賞する」
そう諸将に伝えた。

その後、秀吉は関白なって京に在り、信雄を通して家康と和睦し、妹を送って縁を結ぶとの
事で、その準備が整うと、「三河殿より結納を遣わされたい。その使者に榊原小平太を
遣わされるように。」と所望した。
家康がこれを伝えると、康政は畏まって受け、早速上京した。

康政が京に到着したその夜、秀吉は彼の旅館を訪れてこう言った
「今度私が汝を名指しして呼んだのは他でもない、先年小牧山対陣の時、この秀吉を誹謗して
高札を立てた憎さよ。私は汝の頸を一目でも見ることを願ったものだ。

しかし今、徳川家と縁を結びに至って、私は其方の忠誠を一入感じ入った。誠に武臣たる者の
実義は汝にある。私はこの事を直接言いたいがために汝を呼び寄せたのだ。
ただし、我が妹を遣わす結納持参の使者が無冠では如何かと思う。」

それから奏達あって、康政は従五位下式部大輔に叙任された。総じて、この頃の徳川家諸将の
官名の多くは僭称であったが、この時康政が初めて式部大輔の位記口宣等を受領した。

秀吉より饗応もなされたが、相伴にと、先に徳川家を出奔した石川数正が、十二万石の大名として
秀吉によってあえて呼ばれた。しかし康政は終始数正と言葉をかわさず、その後御暇申し上げ
三河へと帰国した。人々は康政の節操に感じ入ったという。

(武野燭談)


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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    康政さんが石川数正を無視したのプロレスだったんだよね?
    それともガチ?

  2. 人間七七四年 | URL | -

    康政「なんぞ節操なき者と親しく言葉を交わそうなどという気になろうか」

  3. 人間七七四年 | URL | -

    このタイミングで数正呼びつけるって、片や最後まで戦かった者と、
    自分に従った者を見比べる嫌味っぽい

  4. 人間七七四年 | URL | -

    自分だけが初参加の宴席って、得てして

    1.まず知ってる人に挨拶する
    2.その人に他の参加者を紹介してもらう

    という流れだから、1人は知り合いがいないとなかなか輪に入れないんだよね
    数正を呼んだのはその顔つなぎ役のためだと思われる
    つまり殿下はマジに思いやりのつもりで呼んだのではなかろうか

    康政としては「数正に媚売るくらいならボッチ酒の方がマシ」と考えたようだが

  5. 人間七七四年 | URL | -

    数正「だって俺武臣じゃねーし」

  6. 人間七七四年 | URL | -

    ※5
    文官型ですもんね。確か外交関係で、豊臣とめんどくさい連中との間で板挟みになった結果出奔って説があったような。

  7. 人間七七四年 | URL | -

    戦国武将の向き不向きをを「武官」「文官」で分けるの嫌い
    武士には戦闘員と統治者の2つの顔があってどちらもおろそかにできないはずなのに
    中国王朝みたいに職能別採用になってるなら分類として意味があるけどさ

  8. 人間七七四年 | URL | -

    石川数正ってちゃんと武功上げてるよね?仮にも西三河の旗頭でしょ?

  9. 人間七七四年 | URL | -

    ※7
    それはあるね。
    家臣で一括してるのも多いけど、この時代なら家中・国衆で全然違うし
    家中でも数正は家老、康政は側近でポジション全然違うよね。

  10. 人間七七四年 | URL | -

    まぁあの鬼武蔵だって統治者の側面がある訳で…。
    あれ、年末なのに宅急便かな?

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