468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/09(火) 14:11:41.34 ID:sMBoiIZ+
元禄3年5月4日、将軍綱吉の御前にて、水戸宰相光圀は中納言に、その養子であり世子である
水戸少将綱條は中将に、それぞれ昇進された。その座でのこと。
綱吉の側用人である牧野備後守(成貞)がこのように発言した
「今後中将殿には、今までのように、旗本の諸士を召し寄せられる事はいかがかと」
中将ほどの位の者が、幕府の旗本と軽々しく近づきになるのはどうかと、釘を差したのである。
光圀はこれを聞くと
「備後守は、我が家風を存じまい。御前ではあるがついでなれば申すぞ、
水戸家は御旗本の代将軍を承っている!何事か起こったときは、将軍家の御名代として
采配を許されているのだ。然らば諸旗本に平生から参会して、その器量を見知るのが
御奉公である。
これは東照宮以来の御定なれば、今中将が家督を継いだ後も、この事は違うべからず!」
そう苦々しく申したという。
(武野燭談)
>これは東照宮以来の御定なれば
家康「マジかよ」
469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/10(水) 06:06:26.05 ID:JjetV4kA
家康が亡くなった時は頼房って13歳か?
頼房が徳川を貰うのは壮年だし家康から疎まれてたとも言われてるから黄門さまがはったりかましたんか
元禄3年5月4日、将軍綱吉の御前にて、水戸宰相光圀は中納言に、その養子であり世子である
水戸少将綱條は中将に、それぞれ昇進された。その座でのこと。
綱吉の側用人である牧野備後守(成貞)がこのように発言した
「今後中将殿には、今までのように、旗本の諸士を召し寄せられる事はいかがかと」
中将ほどの位の者が、幕府の旗本と軽々しく近づきになるのはどうかと、釘を差したのである。
光圀はこれを聞くと
「備後守は、我が家風を存じまい。御前ではあるがついでなれば申すぞ、
水戸家は御旗本の代将軍を承っている!何事か起こったときは、将軍家の御名代として
采配を許されているのだ。然らば諸旗本に平生から参会して、その器量を見知るのが
御奉公である。
これは東照宮以来の御定なれば、今中将が家督を継いだ後も、この事は違うべからず!」
そう苦々しく申したという。
(武野燭談)
>これは東照宮以来の御定なれば
家康「マジかよ」
469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/10(水) 06:06:26.05 ID:JjetV4kA
家康が亡くなった時は頼房って13歳か?
頼房が徳川を貰うのは壮年だし家康から疎まれてたとも言われてるから黄門さまがはったりかましたんか
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コメント
人間七七四年 | URL | -
普通に考えれば博識と水戸家のプライドを示した話なんだろうが
どこか「処世術とか知るかこっちは歴史的事実の話してんだよ」的な歴オタ臭さも感じる
言うところの「歴史的事実」が若干根拠あやふやなところも含めて
( 2018年01月09日 18:47 )
人間七七四年 | URL | -
えー、権現さまご生存の頃って水戸家は名ばかりで駿府詰めだったのにどうやって旗本統括してたんだろう?
他にも勝手に副将軍扱いになってたりひでえな水戸家。
( 2018年01月09日 18:49 )
人間七七四年 | URL | -
いやほら、権現様が駿府に居た時は駿府勤めの旗本も結構居たはずだしそいつらを差配してたんだよ、きっと
( 2018年01月10日 01:10 )
人間七七四年 | URL | -
そのとき、歴史は動いた(ねつ造)
( 2018年01月10日 05:56 )
人間七七四年 | URL | -
ΩΩΩ<ナ、ナンダッテー
( 2018年01月10日 06:24 )
人間七七四年 | URL | -
東照宮に宮号が与えられた頃からと考えれば辻褄が合ったりも...
( 2018年01月10日 08:12 )
人間七七四年 | URL | -
ゲヒ殿「それがしと本多忠勝殿は仲睦まじきこと夫婦が如し!」
( 2018年01月10日 15:25 )
人間七七四年 | URL | -
「だまりゃ!麿は恐れ多くも帝より三位の位を賜わり中納言を務めた身じゃ!すなわち帝の臣であって徳川の家来ではおじゃらん!その麿の屋敷内で狼藉を働くとは言語道断!この事直ちに帝に言上しきっと公儀に掛け合うてくれる故、心しておじゃれ!」
の水戸黄門様バージョンかな?
( 2018年01月10日 17:30 )
人間七七四年 | URL | -
実際こんな名乗りしたら普通は紀伊尾張の徳川家が何か言いそうなもんだけどね
※8
常陸介「さぁ、それはどうかな光圀」
( 2018年01月10日 23:39 )
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