515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/29(月) 16:03:18.94 ID:lZRCvsBb
黒田家の後藤又兵衛に対する公式見解
以下は黒田長政が大坂の陣で豊臣側についた後藤又兵衛について釈明した書状。
長いので抜粋&意訳。
後藤又兵衛のことについて上様(秀忠)に申し上げ条々のこと。
一又兵衛の親が小寺に従って死んだとき、幼少だったので如水が養育しました。
成人した後、又兵衛の伯父が如水に対し謀反を企んだので追放しました。
このことで又兵衛の一族にも立ち退くように申し付けました。
如水は召し返しましたが、側で召し仕えはさせないよう申したところ
栗山備後に預けて知行百石をつかわした上で、段々と取り立てたため
又兵衛は家老同然に召し仕えるようになり、領地も豊前(細川家の領地)との
境目である小隈という城を預けることになりました。そうしたところ
他家の方々と書状をやり取りするようになり、特に豊前と通じるように
なったので停止するよう誓紙を取り交わしたのに、やめませんでした。
このことで黒田家の事情が漏れてしまうので当惑しました。
また羽柴三左衛門殿(池田輝政)とも内緒で懇意にしていたようです。
一又兵衛とその家来が立ち退いた後、どこに住んだかかはよく分からないのですが
一、二年した後、羽柴三左衛門殿はとりわけ浪人の為に扶持を与えていたので
扶持をもらうため故郷の播州に帰ったことを知ったので、幕府の旗本である
村越茂助、鵜殿兵庫頭の両人をもって、再三奉公構の届けをしたのですが
ついに同心されず、特に申し分もされなかったので遺恨に存じています。
三左衛門殿へ拙者(長政)が直接訪ねるのは憚られたので、慶長16年に
大御所(家康)が(二条城会見の為に)上洛されたとき、村越茂助を通して
又兵衛のことを追放するよう理をもって申し入れたところ、(家康も)
御受け合いされたので、三左衛門殿にも訪問を申し入れました。
しかし去年の夏も、播州から又兵衛が立ち退いた様子はありませんでした。
(輝政が亡くなった後なので)松平武蔵守殿(池田利隆)に先年の筋目のことを
申し入れたところ、すぐに又兵衛を追放されました。
一この後池田家臣の滝川豊前、三好丹後に帰参の訴訟をしたところ、ことごとく
納得されて両人も返事をされたのに、表裏のことを言い出したので又兵衛の
帰参は叶いませんでした。このことは成瀬隼人、安藤帯刀も存じられています。
(又兵衛の親類の居所などについて四条あるが省略)
一今度の大坂の不慮で又兵衛が籠城しましたが、勿論意図したことではありません。
又兵衛の親類は、拙者の下にはおりませんから命令を申し付けることは
出来ませんでした。これらの趣を上様に申し上げてくださればありがたく思います。
以上。
卯月八日 黒田筑前守(長政)
本多佐渡守殿(正信)
又兵衛は池田家にいたとき、池田家臣の三浦氏の娘を妻に迎えていて
大坂の陣のとき2才だった遺児の為勝がのちに鳥取池田家の家臣になっている。
黒田家の後藤又兵衛に対する公式見解
以下は黒田長政が大坂の陣で豊臣側についた後藤又兵衛について釈明した書状。
長いので抜粋&意訳。
後藤又兵衛のことについて上様(秀忠)に申し上げ条々のこと。
一又兵衛の親が小寺に従って死んだとき、幼少だったので如水が養育しました。
成人した後、又兵衛の伯父が如水に対し謀反を企んだので追放しました。
このことで又兵衛の一族にも立ち退くように申し付けました。
如水は召し返しましたが、側で召し仕えはさせないよう申したところ
栗山備後に預けて知行百石をつかわした上で、段々と取り立てたため
又兵衛は家老同然に召し仕えるようになり、領地も豊前(細川家の領地)との
境目である小隈という城を預けることになりました。そうしたところ
他家の方々と書状をやり取りするようになり、特に豊前と通じるように
なったので停止するよう誓紙を取り交わしたのに、やめませんでした。
このことで黒田家の事情が漏れてしまうので当惑しました。
また羽柴三左衛門殿(池田輝政)とも内緒で懇意にしていたようです。
一又兵衛とその家来が立ち退いた後、どこに住んだかかはよく分からないのですが
一、二年した後、羽柴三左衛門殿はとりわけ浪人の為に扶持を与えていたので
扶持をもらうため故郷の播州に帰ったことを知ったので、幕府の旗本である
村越茂助、鵜殿兵庫頭の両人をもって、再三奉公構の届けをしたのですが
ついに同心されず、特に申し分もされなかったので遺恨に存じています。
三左衛門殿へ拙者(長政)が直接訪ねるのは憚られたので、慶長16年に
大御所(家康)が(二条城会見の為に)上洛されたとき、村越茂助を通して
又兵衛のことを追放するよう理をもって申し入れたところ、(家康も)
御受け合いされたので、三左衛門殿にも訪問を申し入れました。
しかし去年の夏も、播州から又兵衛が立ち退いた様子はありませんでした。
(輝政が亡くなった後なので)松平武蔵守殿(池田利隆)に先年の筋目のことを
申し入れたところ、すぐに又兵衛を追放されました。
一この後池田家臣の滝川豊前、三好丹後に帰参の訴訟をしたところ、ことごとく
納得されて両人も返事をされたのに、表裏のことを言い出したので又兵衛の
帰参は叶いませんでした。このことは成瀬隼人、安藤帯刀も存じられています。
(又兵衛の親類の居所などについて四条あるが省略)
一今度の大坂の不慮で又兵衛が籠城しましたが、勿論意図したことではありません。
又兵衛の親類は、拙者の下にはおりませんから命令を申し付けることは
出来ませんでした。これらの趣を上様に申し上げてくださればありがたく思います。
以上。
卯月八日 黒田筑前守(長政)
本多佐渡守殿(正信)
又兵衛は池田家にいたとき、池田家臣の三浦氏の娘を妻に迎えていて
大坂の陣のとき2才だった遺児の為勝がのちに鳥取池田家の家臣になっている。
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コメント
人間七七四年 | URL | -
司馬遼太郎の城塞読んで好きになりました。
播磨灘物語でも又兵衛活躍しますか?
ご存知の方教えて下さい!
( 2018年01月29日 17:30 )
人間七七四年 | URL | -
播磨灘物語は中国大返し迄と、後は飛んで関が原の九州での蠢動メインです
どちらも後藤又兵衛の活躍する場面は無いですね
しかしまあ、ここで紹介されている数々の又兵衛逸話を読むと司馬遼太郎はどうしてああいうキャラ造形をしたのか謎ですよね。読んだこと無いけど立川文庫の又兵衛がああいう感じなのかな?
( 2018年01月29日 19:41 )
人間七七四年 | URL | -
ありがとうございます!
又兵衛の活躍はないのですね残念です。
でも面白そうですね、読んでみようと思います。
( 2018年01月29日 22:17 )
人間七七四年 | URL | -
「池田のところから追い出さなけりゃ、大阪入城しなかったんちゃうか?」とは
聞かないんだろうなぁ
( 2018年01月30日 07:37 )
人間七七四年 | URL | -
※4
家康も奉公構えにゴー出してるのに言えんやろ、そりゃ。
( 2018年01月30日 16:53 )
人間七七四年 | URL | -
話それるが、こいつの母ちゃんは70こえるまで生きてたのに逸話少ない、
ひょっとして貝原益軒が三従の教えに反するから
記録燃やしたのかなぁと疑ってる。
( 2018年07月14日 19:50 )
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