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関八州に鉄砲始まること

2018年02月03日 11:55

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/03(土) 10:39:52.82 ID:Wka7mPI2
関八州に鉄砲始まること

昔、相州小田原に玉瀧坊という、年寄りの山伏が居た。愚老(三浦浄心)がまだ若かった頃、
その山伏からこんな話を聞いた。

「私は関東より毎年大峰に登るのだが、享禄(1528年8月20日~1532年7月)の始まる年、
和泉の堺へ下った折に、大変な鳴り物の音がした。これは何事かと問うた所、鉄砲という、
唐国より永正七年(1510)に初めて渡ってきたのだ、そういって標的を撃った。
私はこれを見て、さても不思議奇特なるものかと思い、この鉄砲を1挺買い取って関東へ
持って下り、当時の屋形であった北条氏綱公へ進上した。そしてこの鉄砲を試射をご覧になると、
『関東に類なき宝である』と、秘蔵された。」

この事を近国他国の、弓矢に携わる侍たちが聞くと、『これは武家の宝である。昔鎮西八郎為朝は
大矢束を引く、日本無双の精兵で、弓の威力を試みるため鎧三領を重ね木の枝にかけ、六重を射落とした
ほどの強弓であったという。保元の合戦で新院(崇徳院)に味方し、八郎一人あって多くの敵を
射殺し、そのため数万騎にて攻めても、その矢を恐れ、院の御門を破ることは出来なかったという。

現在では、弓があっても良き鎧を着けていれば恐るるに足らない。しかしなんといっても、
かの鉄砲は、八郎の弓にも勝るものなのだ。所帯に変えても、一挺欲しきものだ。』

そう願っていた所、氏康公の時代に堺より國康という鉄砲張りの名人を呼び下された。
また根来法師の杉坊、二王坊、岸和田などという者たちが下ってきて、関東を駆け回り鉄砲を教えた。
このような事があって、現代では人ごとに一挺所持している、というような状況となった。

そうして、あの北条氏直公の小田原籠城の時(小田原の陣)、敵は堀際まで押し寄せ、海上も隙間なく
船で包囲した。秀吉は小田原城の西に山城を築き、、小田原城を目の下に見てこう申された
「この秀吉は何度も合戦城攻めをしたが、これほどの軍勢を揃え、鉄砲を用意した事は初めての
幸いである。時刻を定めて、一度に射撃させ、敵味方の鉄砲の様子を観察したい。」
そう、北条方へよびかけた。双方同意し、五月十八日の夜、双方数万挺の鉄砲にて一斉射撃を行った。
これにより盾も矢倉も残り無く撃ち崩されたという。

北条氏直の方も、関八州の鉄砲を兼ねて用意した上で籠城をしたのであるから、敵には劣るまじ、
鉄砲比べせんと、矢狭間一つに鉄砲三挺づつ、さらにその間に大鉄砲を設置し、浜手の衆は船に向けて、
海際まで出、日が暮れるのを待つと、十八日の暮れ方より撃ち初め、敵も味方も、一晩中に渡って
射撃し続けたため、天地振動し月の光も煙に埋もれ、まったくの暗闇となった。
しかしそれにより、射撃による火の光が一層現れ、限り無く見えること、満天の星のようであった。

氏直公は高矢倉よりこれを遥かに見て、狂歌を詠まれた

『地にくだる 星か堀辺のほたるかと 見るや我うつ鉄砲の火を』

これを口にした所、御前に従う人々が
「御詠歌のごとく、敵は堀辺の草むらに、蛍火が見え隠れするようです。城中の鉄砲は
さながら星、月夜に異なりません。」

そのように語ると、氏直公はニコニコと笑みをお見せになられた。
愚老は相州の住人であった。小田原に籠城した時の事、今のように思い出される。

ともかく、鉄砲は永正七年に唐国より日本に渡り、それ以降繁栄し、この慶長十九年までで
百五年である。関八州にては、享禄元年より今年まで、八十七年となる。

(北條五代記)

一般に言われる、鉄砲記の天文12年8月25日(1543年9月23日)伝来説からは、33年も遡っていますね。



610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/03(土) 11:27:55.53 ID:t7jLHXY4
イゴヨサンガホシイテッボウ

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/03(土) 11:36:10.42 ID:bwluwx56
一斉射撃だなんて粋だねえ

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/03(土) 14:05:47.02 ID:T8vcZ8Wi
まとめの1077に
北条氏康が12歳の頃鉄砲の音聞いて驚いて笑われた話があるけど
これはその鉄砲かな

ポルトガルの文書だと1542年だっけ、鉄砲伝来は

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/03(土) 17:26:41.43 ID:6A/dZne6
いわゆる鉄砲伝来は欧州からのマスケット銃が伝来した史実を指す。
一方、東アジア及び東南アジアでは中国発祥のマスケットである鳥銃が広く普及していて、これが日本に部分的に伝来していた可能性は以前から指摘されている。
というか16世紀中盤時点で銃を知らなかった文化ってアジアでもフィリピンと日本だけなんじゃないか。

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/04(日) 19:05:07.80 ID:7bntfjjr
キリスト教:1世紀前半にできて、日本伝来は1549年(1500年くらいかかった)
鉄砲(マスケット銃):15世紀前半にできて、日本伝来は1549年(100年くらいかかった)
梅毒:1492年くらいにヨーロッパ人が感染し、日本伝来は1512年(20年くらいかかった)

宗教、武器、性病の伝来順序が西欧に現れた逆なのが面白い

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/04(日) 22:46:11.25 ID:C2CGA8dd
景教の経典として漢語訳された聖書を遣隋使か遣唐使が持ち込んではいるけどな

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/05(月) 11:12:21.53 ID:4RZFuuGH
元代のマニ教の宇宙図が日本にあった、て話はあるけど
景教経典が持ち込まれた、て話はあったっけ
あとは「甲子夜話」で松浦静山が
「群馬県の多胡碑(711年頃)の近くに十字架が発掘された。
おそらく多胡碑の羊というのはキリスト教徒の一族だろう」
と怪しげな説を唱えているくらい

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/05(月) 14:27:46.51 ID:s4DWgBB+
景教って平家とか朝倉家にいてもおかしくなさそうな名前
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    秀吉「ファイエル」
    氏直「ファイエル」

  2. 人間七七四年 | URL | -

    宣教師「何この国?何でこんなに鉄砲あるの?ヤバすぎ」

  3. 人間七七四年 | URL | -

    鉄砲伝来もっと早かった説で根拠の一つとしてよく引用される記述だな
    まあ火器自体を知ったのは遅くとも鎌倉時代に遡る訳だし、応仁の乱でも当時の日記に火槍が導入されてることが書かれてるから火縄銃より古い形式まで考慮に入れればあり得る話ではあるよね
    他には三河物語でも北条早雲が鉄砲を使ったって書いてあったり江戸初期の人には鉄砲伝来は現在の通説より早いって認識だったっぽいね

  4. 人間七七四年 | URL | -

    あくまでも個人的な考えですが、当時の商人や水軍の貿易具合が分る資料とか出てくれば、詳しい鉄砲
    伝来の記述が分る気がするのですが、やっぱり種子島の話しが有名過ぎちゃって中々見つからない。
    海を越えた人達なら、鉄砲なりそれに近い兵器の噂位は耳に入るんじゃないのかなと。

    鉄砲がどの程度の地域まで持ち込まれていたのかは、当時の外国人がアジアのどの辺りまで進出して
    貿易してたかにも因るのかな?(てつはうの経験から火薬は知ってたとは思うけど)

  5. 人間七七四年 | URL | -

    ※4
    火槍は宋末に中国で発明され、モンゴルの西進によって14世紀までに欧州にもたらされ、
    その後は洋の東西で並行して発展している。
    まあその進歩の速度がアジアはだいぶ遅くなったんだが。
    順序がまったく逆だよ。火薬と銃についてはアジアが先。
    洋式銃の到来を待たず、石火矢タイプの火器はアジアの多くの文化で独自に発展してた。

  6. 人間七七四年 | URL | -

    戚継光は倭寇が使っていた火縄銃=「鳥槍」を自軍に取り入れた人だけど
    「火槍」系統の武器と認識せず佛狼機同様外来の新兵器と捉えてるように思える
    同じ個人用火器でも外見や用法、機構がかなり違うんだろう
    日本人は両方とも鉄砲あるいは手火矢と呼んだために混同したものか

    1510年と言えばポルトガルがようやくゴアを征服した年
    北条に到来したものが欧州系の火縄銃である可能性はほとんどない

  7. ※4 | URL | -

    ※5殿
    詳しい説明ありがとう。黒色火薬の発祥は中国だと言う事はすっかり忘れてました。
    でも、鉄砲文化があった割には大陸・半島の兵達は豊臣日本軍の攻撃に結構被害受けてたみたいですね?
    やっぱり独自運用とか進化して、別物になってたのでしょうかね?
    それにこの時って相手側は火薬兵器の類って使われたのですかね?

  8. 人間七七四年 | URL | -

    ※7
    文禄の役の時の中国軍は「遼東鉄騎」と称された李如松の私兵が中核で
    「三眼銃」という多銃身型のハンドカノンを装備していたことが知られている
    フロイスによれば火縄銃もあったが性能は日本製にかなり劣っていたらしい
    平壌では小西軍が大砲に圧倒されているので火器自体は豊富

  9. 人間七七四年 | URL | -

    >>三眼銃
    ttps://www.youtube.com/watch?v=QNXkUA0KFNY
    これかな?

  10. 人間七七四年 | URL | -

    以前芝村裕吏氏が明清期の銃器事情についてツイッターで呟いてたね。
    ざっくり言うと、明末には財政難から明の軍制が完全に崩壊し、兵は老人ばかり(志願者は退役年齢が定められていなかったため。清側史料にも明軍は老人ばかり、とある)、装備も官給制が立ちいかなくなり個人賄いとなって統一性が破綻。
    倭寇から倭刀と共に銃器を鹵獲した威継光はこうした兵でも一定の戦果を見込める銃器主体の軍隊を立て直し、以後明末までに威継光の軍制が広がったという内容だった。

  11. 人間七七四年 | URL | -

    ※10
    戚継光の凄いところは、装備が揃わないのを逆手にとって、
    雑多な武器の得意不得意を組み合わせることで戦力化したところ。
    この防衛システムを継承した孫承宗が車営戦術として体系化し、
    さらに袁崇煥が火器をアップグレードしたので明末期にはかなり強力になっていた。
    崇禎帝が自滅しなければ呉三桂は余裕で持ちこたえられたんじゃないかと思う。

  12. 人間七七四年 | URL | -

    マニ教ってマニさんの自称では「真のキリスト教」じゃなかったっけ
    たしか

  13. ※8 | URL | -

    ※9
    フオオオオ!動画で見れると思わんかった!ありがてえありがてえ!

  14. 人間七七四年 | URL | -

    景教ってみると「かげのり」と読みたくなりますねわかります

    ネストリウス派だから今の聖書と構成違うはずだけど
    文書現存してるのかな?

  15. 人間七七四年 | URL | -

    ※1
    「ファイエル」ときたら片方は
    「ファイア」ではないのか!?

  16. 人間七七四年 | URL | -

    ※9
    三眼銃ってこんな風に使うのか

  17. ※8 | URL | -

    ※16
    喋ってる内容はよくわからんけど、パーカッションと書いてあるので発射機構だけ雷発式に替えたのかも。
    叩きつけるだけでスパスパ撃ってるのは雷発式は起爆薬(雷汞)を衝撃で炸裂させて点火する方式だから。
    となると本体は15世紀でも着火機構は19世紀なので、連射してドヤるのはちょっとずるい気もする。

  18. 人間七七四年 | URL | -

    動画見つけてきた者だけど、一応色々その手の動画はあったのけど、全部は到底無理なので一番シンプル
    なのを載せました。各自色々検索して個々でコレだ!ってのを選んでみましょう。

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