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高国近江落ち

2018年03月16日 15:59

606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/16(金) 04:26:55.72 ID:l34Vc7iF
このため高国(細川高国)は丹波・山城・摂津国に触れを出しなさり、同年(1519)11月21日、
都を出立され、同12月2日に池田城へ御着きになった。越水城の御詰のために小屋野間九十九町・

高木・河原林・武庫・寺部・水堂・浜田・大島・新田・武庫川の方面に上から下まで陣を取り続けて、
折々合戦なさったのである。年は暮れて永正17年(1520)庚辰になり、1月10日に高国より

諸陣へ触れを出しなさり、2万余騎で打ち出た。諸口では合戦が終日あり、高国方の丹波守護代・内藤
備前守(貞正)は火花を散らして合戦され、切り負けて2百人ほどが討たれて退却した。阿波衆も百人
ほどが討死し、双方手負いは数を知れない。また高国方の摂津国の住人・伊丹兵庫助国扶は中村口へ

攻め掛かり、木戸や逆茂木を切り落として内へ込み入って申の刻から酉の終わりまで合戦し、伊丹衆は
打ち勝って阿波衆の首50余を討ち取り、勝鬨を作って制圧した。また同日に城中より、正門の木戸を
開いて2人の者が「我ら当国大島の住人、雀部与一郎!」「同しく弟の次郎太郎!」と名乗り、

「高国のため、また家のために命は惜しくない! 敵方は誰でも寄り合いなされ!」と、大声で叫ぶと、
澄元方の田井蔵人が名乗り寄せて切り合ったのである。雀部は切り勝って蔵人の首を討ち取ったが、

雀部兄弟も痛手を負って城中へ入り、それから4,5日して死去したのだった。対馬守(瓦林正頼)を
始めとして上下ともに惜しまぬ人はいなかった。城中では月日を送るにつれて気力を失い、

同2月3日の夜半に対馬守は安部の蔵人と談合して、城を開けなさった。この時、若槻伊豆守は老体で
あったため「どこまで」と思い切り、腹を十文字に切って死去した。

これにより後詰勢の衆は地田・伊丹・久々知・長例・尼崎へ引き籠った。そのため澄元方の三好筑前守
之長は難波へ陣取りなさる。他に澄元方は小屋・富松・生島・七松・浜田・新田へ陣取り、同16日に

1万7千余騎で尼崎・長洲へ攻め掛かり合戦となった。大物北の横堤には、高国方の香西与四郎が打ち
出て、三好孫四郎(長則)と渡りあって太刀打ちし、双方名を上げなさった。その日は暮れて雨も降る
ので両方は互いに退いた。このため高国は叶わないと思し召し、城々へ仰せ合わせられて、その夜中に

高国方は一同に京へ上りなさった。このような成り行きは「1月10日は西宮の御狩神事の日である。
“居籠”といって人音もしない日だというのに、攻め掛かけなさった御罰である」と人々は申した。

されば落武者の哀しさよ、高国は京にもいらっしゃらずに近江国へ落ち行きなさった。今度は公方様
(足利義稙)は澄元に一味して京におられた。さて伊丹城の中では伊丹但馬守と野間豊前守の2人が

申して「当城はこの数十年の間、諸侍や土民以下の者たちが苦労して拵えたというのに、その甲斐も
なく逃れては口惜しいことよ。我ら2人はこの城の中で腹を切ろう」と、四方の城戸を閉ざして家々
へ火をかけ、天守で腹を切った。これまた剛なる人かなと感心しない人はいなかったのである。

――『細川両家記』


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