FC2ブログ

桶狭間の戦い

2018年03月17日 18:18

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/16(金) 19:40:54.30 ID:FA5jxJkX
ここに織田弾正正信長と申す人、父に少年にて死別したが、少しもその跡を敵に侵入
させなかった。

そのような中、駿河国の今川義元は、三河遠江駿河伊豆四ヶ国の軍勢を率い、三河と尾張の間の、
信長方の城である大高、沓掛二ヶ所の取手(砦)を一刻に攻め取り、永禄三年五月十八日の晩、
桶狭間と申す所に今川義元は陣をとった。

一方、尾張清州城では、林、平手を始めとした信長の重臣たちが揃って、
「清須は日本一の名城なれば、籠城こそ最善です」
と申し上げたが、信長はこれを聞くと拒絶した
「昔より籠城して運の開けたことはない。明日は未明に鳴海方面へ打ち出て、義元の首を
刎ねるか、私が討ち死にするかである。」

信長が日頃から心をかけていた侍である、森三左衛門(可成)、柴田権六(勝家)といった者達は、
「快き仰せである。我らは御馬の先に立ち、討ち死にを致しましょう!」
と申し出、その他何れも、信長の方針こそ然るべしと申し上げ、座敷を立った。

十八日の夜半過ぎ、信長は広間へ出て、”さい”という女房に「今は何時か」と尋ねた。
「夜半過ぎです」と申し上げると
「馬に鞍を置かせよ!湯漬けを用意せよ!」と命じ、御前に昆布、勝栗を持って参らせた。
そして床几腰を掛け、小鼓を取り寄せ、東向きになり

「人生五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の間なり 一度生を受け 滅せぬ者のあるべきか」

そう、三度舞われて、城の内より、小姓七、八騎を引き連れただけで出立した。
既に大手の口にて、森三左衛門、柴田権六、その他三百ばかりが控えていた。信長は森、柴田へ
「両人早し!早し!」と声をかけた。

熱田源太夫殿の宮の前にて、千七、八百となった。星崎方面に控えていた佐々下野守(政次)は
その手勢三百あまりにて今川軍六万を抑える役割を仰せつかり、信長の前に出ると

「それがし、一人であっても今川と組み合い、討ち死にしようと考えていたところ、
さても妙なるお出でです。それがしが命を捨てる以上、今日の合戦に御勝ちすること
必定です。今日の戦いこそ、天下分け目の合戦です。殿が天下を治められた時、
弟の内蔵助(成政)、また私の倅を、お見捨てなされませんように。

我々は東向きに、今川の旗本へ乱れ入ります。殿は脇鑓に向かわれ、鉄砲弓も打ち捨て、
ただひたむきに打ってかかって下さい。」

そう伝えて攻撃へと向かった。

今川義元は油断していた所に、織田軍三百五十ばかりが突然攻撃をしてきた事で、「本陣で
喧嘩が起きた」と、六万余騎の者達騒ぎ立てた所へ、信長が二千あまりにて
「一人も逃さじ!」
とわめき叫んで大音を上げて切ってかかった。

これに今川勢は一支えも出来ずたちまちに敗軍し、義元の頸は毛利新助が取った。
この時、大風、あられが降り、大高、沓掛では大木が吹き倒れたという。

五月十九日巳の刻(午前十時ころ)、首数五千ばかり討ち取り、大利を得た。
この時織田信長、二十七歳であった。

(道家祖看記)



703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/17(土) 07:59:50.97 ID:q6+MveO/
柴田勝家は桶狭間に参加してないと思うけどね
スポンサーサイト





コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    勝家「家中随一の猛将が参加しとらんちゅうことじゃサマにならんのだぎゃ」

  2. 人間七七四年 | URL | -

    今川領に伊豆まで含められているのはなぜだろう

  3. 人間七七四年 | URL | -

    >>少しもその跡を敵に侵入させなかった。
    敵は内側に沢山居たんだものね・・・

    北条氏政
    キリッ「昔より籠城して運の開けたことはない。」
    だっておwwwwバンバン

  4. 人間七七四年 | URL | -

    六万余騎とか…

  5. 人間七七四年 | URL | -

    創作だと木下藤吉郎も参加してるな

  6. 人間七七四年 | URL | -

    ※3
    毛利元就「援軍のアテもないのに籠城するのは愚の骨頂」

  7. 人間七七四年 | URL | -

    「道家祖看記」って書物の来歴はどうなんでしょうか。
    ググっても「道家祖看記曰く」くらいしか出てこないっす

  8. 人間七七四年 | URL | -

    ※7
    「本書の作者道家祖看は、尾張国春日井郡安井の住人なり。
    織田信長正親町天皇の密勅を蒙りたる事及び内裏造営に尽力せし事等に関し、
    その父より聞きたるままを、寛永20年に記述したるものなり。」

    とのこと。(国立国会図書館デジタルコレクション「日本歴史文庫」より)

    ちなみにwikiを信じるならばこの人(道家清十郎)の弟ということになる。

    真に必死と志さなければ
    ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11115.html
    俺は断じて及ばない
    ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7018.html

    結構筋目は悪くないような気がするが、年寄りの記憶違いということもあるからなあ。

  9. 人間七七四年 | URL | -

    wikiをまとめると道家一族は九条家の美濃尾張三河における荘園管理をしてたみたいだね
    武田氏滅亡後は小諸2万石の城主になっているから本能寺の変がなければ歴史に残って居たんでしょうけどね
    その末子がお寺に入って書いたのが道家祖看記らしい

  10. 人間七七四年 | URL | -

    佐々成政の兄貴、死ぬ気マンマンすぎて笑えない。

  11. 人間七七四年 | URL | EybeWf1w

    熱田の大宮司千秋も一緒に突撃して討ち死にしてるのに名前があがらんよね

  12. 人間七七四年 | URL | -

    ※9
    wiki見たけど小諸2万石得たのは親族の正栄(滝川一益の甥らしい)かと。
    因みに道家尾張守は勅使の立入宗継と義兄弟(同じく勅使として来た磯谷久次の娘を両者共に妻としていた)の様です。
    宗継は1622(元和8)年に95歳で亡くなって((菩提寺は祖看が居る清浄華院)ますが、孫の貞頼が、祖看に祖父の事知りたくて祖看が父の尾張守から聞いた話を書いて貰う様依頼したのが件の書の由来の様です。依頼受けた時に祖看は既に80歳ですから記憶違いは有りそうですな。

  13. 人間七七四年 | URL | -

    ※11
    千秋一族は神官なのに戦意がありすぎて、信長から「もう戦わないで」って言われるくらいだしな

コメントの投稿

(コメント編集・削除に必要)
(管理者にだけ表示を許可する)

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://iiwarui.blog90.fc2.com/tb.php/11210-44377285
この記事へのトラックバック