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両葉去らずんば斧柯を用うるに至る

2018年04月01日 19:25

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/01(日) 04:08:49.28 ID:1ZszLF6D
永正16年(1519)己卯、細川高国は管領として天下の政務を行った。弟の右馬頭(細川尹賢。高国の従弟)
は尼崎に住んで西国の沙汰を決断した。高国の家臣に香西(元盛)という者がいた。陪臣として諸事を執行し、

その威は主君よりも重く、その弟の柳本(賢治)もまた高国の男色の寵愛によって身に余る俸禄を蒙り、人に勝る
栄耀をなし、魯の哀公の季孫氏・叔孫氏、魏の曹叡の司馬父子の如く寵に媚びる者と交流を厚くし、睦をなした。
当家も他家も押し並べて、その門下に奔走したのである。

尼崎城を築くために香西兄弟も下向し、細川一家の人々は日夜土木の役にあずかった。その際に右馬頭の人夫と
香西の人夫が僅かな土を争って口論に及び、下部たち数百人が両方に立ち分かれて瓦礫打ちになったが、仲裁が
入り、両方へ引き分けて行った。右馬頭の者たちは城中へ入り帰り、香西の者は自分の丁場へ帰った。

ところが下知不聞の溢れ者が居残って城中へ瓦礫を打ち込んだのである。右馬頭が驚いて「これは何事だ!」と
問えば、しかじかの事と申すので、腹を立てながらも「下人に対して仲裁した以上は、また打擲すべきではない」
としてその場は静まった。右馬頭は日頃から香西の振舞いは我儘だと思っていたところに、この事が起きたため、

密かに高国に申して様々に謗り、偽りなさった。高国も「“両葉去らずんば斧柯を用うるに至る”という例えも
ある。それならば香西を誅殺しなければならない」と思い定めた。しかし香西を誅殺すれば柳本が自分に仕える
ことはないだろうと、彼の心を推し量って躊躇ったが、

「我が命に替わらんと志す柳本ならばよもや仰せには背くまい」と、柳本に宛てて如才なき真実を誓紙に書いて
文箱に入れたものを予め拵えておき、1月20日に香西を殿中に呼び寄せた。香西が何気なく、いつものように
出仕したところを、予め謀っていたことなので殿中で即時に誅殺した。高国はそのままかの文箱を柳本の

ところへ遣わされ、それには「国家のために誅したのである。其の方は恨みを含んではならぬぞ」と懇ろに仰せ
伝える内容が書かれていた。ところが流石の柳本なれば、文箱を開かずに持参して殿中へ参り、

「香西のこの頃の驕りの限りによって、このようになされたのだと存じます。国家のためですから、それがしは
少しも恨みを含み申してはおりません。御誓文を開き見るには及びませぬ」と、文箱を上に戴いて返し奉った。

そして柳本は「舎兄の不義に連座の罪科を御宥免なされ、それがしをもとのように召し使ってくださることは、
生々世々までもかたじけなく存じます」と申し、御前を退いて宿所に帰り、平生の行儀に変わることはないので、

(高国は)「漢の光武帝は兄の劉エンを更始王(劉玄)が殺したのに、言辞も談笑して元通りだったというのと
違わぬ。あっぱれ度量広き国家の忠臣なり!」と申した。

しかし柳本はこのままでは「主君とはいえ兄弟の仇に反抗せずにいるのか」という謗りを免れ難く思い、20日
ほど過ぎて図らずも思い立ち、丹波の領地へと引き退いたのであった。

――『舟岡山軍記』


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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    もう一人、懐柔すべき弟がいるのですが…高国さん。

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