唐人松の伝説

2018年04月14日 18:10

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/13(金) 01:39:43.01 ID:Ejka1ruV
渕田集落の松ヶ平に唐人松の伝説を伝える松がある。現在朽木一株があり、その下に墓がひとつある。

往時鹿児島県喜入に来住していた唐人たちは長い年月が経って古郷が恋しくなり、唐船の入港を待ち
わびていた。ある日、待望の船が港についた。唐人たちは喜んだが、いざ入船するという時に

1人足りなかった。あちこち探しても見つからず、あれほど帰りたがっていたのを、置いていくのは
可哀そうだが、航海の都合もあるので後ろ髪を引かれる思いで出航した。彼が港にかけつけた時には

船はすでに沖合遥かに煙っていた。彼は地団駄を踏んで悔しがったが、どうにもならず悲しさの余り
だんだん上のほうにあがり松ヶ平まで来た時、船の姿はついに海空のかなたに見えなくなった。

彼は悲嘆の余りに、松の枝に首を吊って死んだ。以来、村人たちはその松を“唐人松”と呼ぶように
なった。彼には知覧に恋人がいて、帰国にあたり別れを告げに行っていたのだと伝えられている。

なお知覧町桑代集落には唐人松にかかわる次のような話が残る。唐人松の下に自然石の墓がひとつあり、
この墓に毎年の盆正月、春秋の彼岸の年4回墓参りに来る人たちがいた。知覧町桑代の人たちである。

桑代集落の祖先は佐多に居住して禰寝家に仕えていた。禰寝氏は文禄4年(1595)、吉利に移封
されて与えられた知行は約3700石で旧領の約4分の1であった。禰寝重張は一族郎党数百の家臣

を伴って吉利に移ったが、当時の吉利は田地が少なくむしろ未墾の地であった。重張に従って移住した
ものの、その多くが生活に困って旧領地へ引き返す者も少なくなかったという。

その中の一族・桑代家も旧領地へ引き返す途中の旧暦12月30日夕方、知覧町の桑代に辿り着いた。
明日からは峠を越えてさらに何日かを費やして帰っても、そこは既に他家の領地であり、土地も家も

没収されていることは分かっていた。いろいろ思案の末、ここに留まって居住地とすることにした。
桑代を中心に上之町(松尾家)、中福良(田中家)に居を定めることにした。翌日は元旦だったが、

長い旅続きで蓄えもなく、正月は何も飾ることはできなかった。以来、今日まで正月の松飾りなどは
しないしきたりになっている。桑代一帯に落ち着いた一族の長老は、その死に臨んで、

「自分が死んだら、これまで過ごした佐多の地が見える所に埋めよ」と言い残した。遺族たちは遺体
を桑代に埋めたが、その遺言を守って大隅の地が望める松ヶ平の唐人松の下に墓を建て、以来、

三集落の若者が2人ずつ年4回の墓参りを欠かすことなく続けて、太平洋戦争中も女性が代わりに
続けてきたという。ところが昭和30年代に入り、若者が都会に出て行って戸数も人口も減少し、

やむなく歳をとった女性が墓参りを続けていたが、目印の傘松は枯れ、造林によって林相は変わり、
かつての知覧街道も荒れ果てて、通る道すら分からなくなってしまった。

このため昭和52年(1977)、桑代集落の墓地改造を機に、唐人松の墓地をこの墓地に移すこと
にして共同墓地の中央に“桑代氏祖先之墓”を建立し、昭和53年(1978)1月29日改葬され、
ここで永久に村人たちを見守り、また村人たちが見守ることになった。

薩摩藩領内には“唐”のつく町名・港名などが多い。唐はもちろん外国の意味で薩摩が立地・気象・
海流など海上交通の条件に恵まれ、古来から中国・朝鮮・東南アジアとの往来が盛んだったからで
ある。本町でも旧市の唐人潟、唐人松に何らかの由縁を感ずる。

――『喜入町郷土誌』



766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/13(金) 01:49:49.69 ID:b2XKvRfw
産業で頼む

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/13(金) 07:56:39.51 ID:ZJ5kSamD
むしろ長文がダメな人が来る所じゃないような
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    冒頭を『朽木一族が…』と空見してしまい
    薩摩にも居たんだって誤解しながら読み進めてしまった

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