小堀の三ヶ条の要求

2018年04月25日 15:38

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/25(水) 04:38:31.13 ID:SJVZjKl4
日本の茶道や生花に遠州流という一派を開いた小堀遠江守政一に関する逸話はずいぶんと人口に
膾炙しているが、とりわけその一生一代の傑作と称せられる京都の桂離宮の庭園および茶室は、

とにかく大いに見るべきものがある。これについて例の如くひとつの伝説が語り伝えられている。

桂離宮は豊臣秀吉が小堀政一に命じて考案実施させたものであるが、小堀はこの命を受けた時に
秀吉に3つの条件を出し、この条件が受け入れられるなら引き受けると申し出た。

1つには意匠と考案に関して絶対に他の口出しを許さないこと。2つには竣工期限や工費に制限
を設けないこと。3つには工事中は絶対に見に来ないことであった。

寛大な秀吉はよろこんで承諾し、小堀は丹精を込めて思う存分その技術を振ったので、あの様な
美しい庭園や茶室などが大成したのだという。

しかしこの伝説がまったく虚構であることは甚だ明白である。さて、小堀遠州なる者は天正7年
(1579)の生まれで、初めは秀吉に仕えていたが、のち徳川家康に仕えた。豊臣滅亡後の

元和9年(1624)に伏見奉行となり、在職25年間すこぶる治績を挙げた。茶道は千利休の
門人・古田重能(織部)に付いて学び、ついに一家を成した。彼はいわゆる芸能の人で、

茶道以外にすべての美術工芸に精通し、ことに絵画は狩野探幽と親交があったことから狩野流の
画を得意としたという。正保4年(1647)2月6日、69歳で死去した。

この年譜から算出すると秀吉の亡くなった慶長3年(1598)には、小堀はまだ20歳の若さ
である。また桂離宮は天正15~6年頃(1587~8)、小堀が9~10歳の頃に秀吉が

正親町天皇の皇子・陽光院の第六子・智仁親王を請うて猶子とし、八条宮と称してその別宅を
桂の里に造営したもので、今現存する旧御殿がすなわちこれである。新御殿の茶室や庭園は、

二代・智忠親王の時に徳川氏が小堀に命じて造らせたもので、寛永の初年に完成したというが、
これは真実であると認められる。すなわち元和の終わりか寛永の初めかに、伏見奉行であった

小堀が造ったので秀吉とは全然関係がない。もし小堀が3つの条件を出したとすれば、それは
二代将軍・秀忠か三代将軍・家光に対して試みたものでなければならない。

小堀の三ヶ条の要求なるものは、つまるところは芸術家の理想を事に託して仮作したのである。
これに類似の伝説は古今珍しくない。今日も富豪が趣味のために造営する邸宅庭園の類には、

工費と期限に制限を設けない例もあるが、意匠や考案を技師に任せて干渉しない例は殆ど無い。
ましてや工事中に絶対見に来ないという条件は到底成立しそうもない。官公の造営に至っては

一から十まで干渉ずくめであり、ことに会計法で縛られるから碌なものができようはずもない。
そう考えると桂離宮の庭園建築はあまりに巧みである。むしろ巧みにすぎる。

これが遠州の長所にして同時に短所である。

――『白木黒木』


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