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少之御普請も御堪忍、御尤候事

2018年05月13日 17:22

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/13(日) 11:57:27.51 ID:hgZsim4a
寛永十一年(1634)八月晦日 細川忠利書状案

御門わき石垣、はば五六間程くみ申候由、如元可被仰付哉与被仰越候、中々御無用にて御
座候、道へ崩れかかり候はば、人の通候道御座候程にお引のけ候而、少しも少しも石垣御
築直之儀御無用に而御座候、城之見苦事は何方も同前儀候、不被得御意候而は、少之御普
請も御堪忍、御尤候事

 ここでは、父・祖父よりも影が薄い忠利さんを、ダイマ。
 有馬直純から、城の修復について相談を受けたときのお返事。城の修理はくれぐれも慎
重に。ちゃんと幕府の許可を得よう。城のメンテナンスが行届いていないのは、どこも同
じだから気にすんなだって。
 関ヶ原以前に築かれた近世城郭が、数十年を経て、いっせいにメンテナンスが必要な状
況になってきたそうだ。ついでに、この年は家光の上洛で、この種の事務も滞っていたの
だろうな。
 しかし、道を塞いだら、人が通るところだけ石をよけて、あとはそのままにしとけって…




748 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/13(日) 12:19:44.01 ID:mMOiDVzU
>>747
寛永11年なら戦国も終わって太平の世真っ盛りだしなぁ… もうちょっとしたら天草の乱が有るけれど。
しかし、届出してやるにしても金はかかるは幕府に睨まれかねないは、やらなきゃやらなかったでお咎め食らいそうだわ… しかし、平山城も草生えたり木が伸びて道が荒れる事もあるし、お手入れはどうしてたんだろうなぁ
外様大名は辛いわねぇ…

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/13(日) 14:23:41.11 ID:VWNosI8F
草刈りと木の手入れは副産物貰って帰る条件で
むらかた、町方に。
草は家畜の餌とか肥料になるし木は焚き木に使える。
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    確かに草は当時は重要な肥料だからねえ。
    江戸時代全国的に意外と森林が少ない理由の一つに田畑に草肥施す為の草地が必要だったかららしい。(牛馬の飼料にしても最終的にその糞は肥料になりますし。)
    西国だとその草肥を確保出来ない所が多かったので、金肥として干鰯とか綿実粕とかが使われる様になったかと。(西国だと肥料を必要とする綿花栽培が盛んだったのも有るが。)

  2. 人間七七四年 | URL | -

    ※1
    日本の場合、牛馬の糞は肥料にしてなかったですよ
    肥料にしたのは人糞でした

  3. 人間七七四年 | URL | -

    津山藩では百姓を村ごと山地に引っ越しさせる代わりに
    城内の草刈りする権利をやってたな、当時はいい稼ぎになったのかも

  4. 人間七七四年 | URL | -

    ※2
    人糞を基にした下肥だけでなく、家畜の糞を使った厩肥も有ったみたいですよ
    どちらが一般的だったとか、使用量の比率まではわかりませんし、時期による移り変わりは有ったかも知れないですが。
    どちらかと言うと厩肥より下肥の方が国内で確認できる記録は新しいみたいです

  5. 人間七七四年 | URL | -

    福島正則の改易後には城修復には皆慎重になるわさ

  6. 人間七七四年 | URL | -

    コレが江戸中期以降になるとガンガン曲輪を増設したり上手くいかないと放棄したり、この前修理しましたって事後報告になったりする記録が残っているんだから幕府も熊本城を重視してたのか、それとも初期の武家諸法度の運用は厳しすぎたと思っていたのか

  7. 人間七七四年 | URL | -

    6
    江戸初期は幕府の権威付け、初期運用故の見せしめ、幕閣内の権力闘争(市松と本多正純の例)、色々有ったんじゃないですかね?
    で、幕政が熟成されるにつれ幕閣の官僚化によるなあなあ化、事勿れ主義、etc…
    で、緩くなって行ったと

  8. 人間七七四年 | URL | -

    武断政治から文治政治への移行の結果じゃないか

  9. 人間七七四年 | URL | -

    嗣子無しの外様とか権力闘争負けた譜代とか改易しすぎて
    浪人があふれて慶安の変起きた後から
    改易しすぎの弊害を認めて末期養子認めるようになったし

  10. ※1 | URL | -

    ※2,4
    江戸時代の利用状況の研究が進んでなかっただけで、厩肥も多かったらしいですよ。
    江戸時代は秣や苅敷を得る為に山を草山にしている所が全国的に多かったらしい。開発が進んでいた畿内だけで無く、森林ばかりみたいなイメージの飛騨でもそうだった様ですし。
    ただ江戸時代前半で田畑と共に過剰開発になって、保水力低下による洪水や渇水が頻発とか、入会地の利用めぐって村々が争う事になるなど問題も多かった様です。
    でそう云う草山が少なく西国から干鰯とか(綿実粕や菜種油粕も有るが)を使う様になった様です。
    でこう云った肥料は金肥と云う位でお金が掛かるし、場所によっては運べない地域も有る訳でそう云う肥料を買えない地域、階層は草肥に頼らざる得なくて貧しさの象徴になった様です。
    (下肥にしても最初は自給肥料ですが、必要量を確保するとなると、下肥問屋から買わなくてはならない金肥ですし、下肥問屋成立するのは江戸を筆頭にした都市が無いと難しいかと。)

  11. 人間七七四年 | URL | -

    *10
    信玄「ちょっと山行って来るわ」

  12. 人間七七四年 | URL | -

    正則「石を…石をは買うぞ」

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