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戸次道雪勢の宗像攻め

2018年05月24日 20:01

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/24(木) 19:58:03.65 ID:TakCX18k
筑前国糟屋郡立花の城主は、大友宗麟の股肱の臣、戸次入道道雪であった。
この道雪は、智仁勇の三徳を兼ねた人であるので、筑前に召し置かれ、原田、秋月、千葉、
千手、筑紫、高橋らを攻めて豊後の屋形の幕下となし、肥前の龍造寺隆信をも攻め従え、
薩摩の島津との九州支配をかけた争いの時に備えた。

しかし宗像の大宮司は、大内殿の頃より山口に参勤して幕下となり、陶晴賢が亡びた後は
毛利元就に属して大友に従わなかった。

これについて道雪は考えた。
『先ず、宗像を攻め従えれば、龍ヶ岡の城主・杉十郎貫並も、烟ノ城主・香月七郎経孝も、
山鹿城、花尾城、剣嶽城までも、残らず手に入れることができる。

幸いにも近年宗像氏貞は、城普請に財を費やし。家中に十分の一の役料をかけ、民百姓にも
課役をかけて、領内衰微し粮も乏しい。
その上、名のある老臣、武勇の士は山田の怨霊によって取り殺され、氏貞自身も博多津の
聖福禅寺の玄蘇和尚を招き、禅法を学び詩歌ばかり成し、家中もその風に靡いて武事を
怠っているという。

この虚に乗じて、宗像を攻め滅ぼすべし!』

こうして、大山対馬守、小野和泉守、由布美作守、薦野三河守、安部、十時、森、原田、吉弘
を始めとして軍勢を集め、永禄十年九月に立花を出立して飯盛山に陣を取った。

宗像氏貞はこれを聞いて、急ぎ飯盛打ち越して追い払うべしと、吉田伯耆守重致、許斐安芸守氏鏡、
占部右馬之助氏時、石松但馬守、米多比修理進貞兼、畔口伊予守益勝、吉田左近貞延を始めとして
都合二百余騎の軍勢にて飯盛山に押し寄せた。

その頃、敵は先ず許斐の城を攻めてその後維ヶ嶽に攻め寄せんと支度をし、飯盛山にて諸卒兵粮を
つかわしめんと、野陣をしたばかりであったため、この宗像勢の急襲に慌てふためいた。

宗像勢より黒糸縅の鎧を着て栗毛の馬に銀幅輪の鞍を置いて打ち乗った武者、一騎駆け出して
「吉田勘解由左衛門致晴である!」と名乗り真っ直ぐに進んで

「日頃、立花の人々は、『宗像大宮司の長袖烏帽子のヘロヘロ矢、何程の事があろうか。』
などと嘲弄されていると承る。神職の者の射る矢が立つか立たぬか受けてみよ!これ神通の
鏑矢なり!」

そう弓を引き絞って射放った。その矢は、正面に居た立花方、原田源五郎の胸板を貫き、
その後ろに控えていた、原田源助の草摺の端まで射通した。

これを合戦の始まりとして、互いに揉み合って戦ったが、既に日暮れに及び、この立花勢を
率いていた小野和泉守は
「日が暮れて他領に陣する事は不覚である。急ぎ引き取れ!」
と撤退を指示し、莚内新原方面に退き、立花城に帰城した。この時宗像勢の討ち取った首
百七十三は、のちに立花に送り届けられた。

この後、立花勢と宗像勢は小規模な衝突を繰り返したが、元亀元年、両家の家臣たちの計らいにより、
宗像氏貞の妹を立花に嫁がせ、双方講和を結んだ。

(宗像軍記)

宗像と戸次道雪との合戦についての逸話。合戦のきっかけが「怨霊で弱ってるからチャンス」というのも珍しい


山田の怨霊


947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/24(木) 20:32:06.26 ID:4Xit32je
ヘロヘロ矢
こう言う擬音使うんだね
なんか和むわ

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/24(木) 23:17:08.94 ID:JBrXXdXb
怨霊などと苦しい言い訳だな

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/24(木) 23:21:14.32 ID:3MSEcnfi
まあ、後継者問題で家中がゆれてたんだろうな。その隙を狙われたけど、撃退に成功したわけだ。
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    家運の悪さを戦略の中に組み入れるという感じに思えるけど、実際のところ他家からの謀略で弱っていたところを狙ったんじゃなかろうか。

  2. 人間七七四年 | URL | -

    ベッキーって意外と敗戦多いよね。大戦での負けは無いけど近隣国衆との小戦では結構負けている。宗像もだけど秋月にも勝ったり負けたりとイメージより勝てて居ないし筑前の支配権も確立出来ていない
    ひょっとしたら宗茂に代替わりして以降の方が立花家の勝率良いんじゃね?

  3. 人間七七四年 | URL | -

    と言うか道雪の戦歴って殆どが防戦だし蹴散らした相手もゾンビのごとく蘇る秋月や筑紫だしで東西奔走の苦労の割りに勝ったとしても実入りの少ない戦ばっかり

  4. 人間七七四年 | URL | -

    ※3
    マドハンドでレベル稼ぎしたようなもんだな

  5. 人間七七四年 | URL | -

    ピュロスか

  6. 人間七七四年 | URL | -

    かと言って放置しておけばどんどん龍造寺みたいに独立⇒大勢力化していくわで討伐しないわけにもいかない
    北から毛利が来るわ南から島津が来るわ四国にちょっかい出しちゃうわで大友家はボロボロ

  7. 人間七七四年 | URL | -

    ヘロヘロ矢ってのは現代語訳した人の使った言葉じゃないの?
    そのままだとなんか武功夜話臭がする

  8. 人間七七四年 | URL | -

    ※7
    『太平記』にもへろへろ矢って表現があるぞ
    擬態語は昔から普通に使う

  9. 人間七七四年 | URL | -

    >>4
    たまに出てきた大魔神で雷切をゲットしたんだな。

  10. 人間七七四年 | URL | -

    ※7
    原文通りだね>ヘロヘロ矢
    ttps://i.imgur.com/6LqbgZW.jpg

  11. 人間七七四年 | URL | .ZWFf9ps

    この戦闘の立花軍は、元の立花山城主・立花鑑載のことです。
    永禄十年九月には道雪はまだ立花山城の城督ではないし、もちろん道雪配下の小野、由布、十時、森なども参戦していないよ。古処山で秋月種実と対陣しているから。

    大友方参戦していたのは立花鑑載、怒留湯融泉(その弟・久則が宗像方の吉田守致と一騎討ちで戦死した)、薦野宗鎮や米多比直知一族。

    ttp://urabe-roots.net/gunki4.htm

    宗像氏貞の蜂起
    これを知った宗像氏貞は9月10日、大友方の立花山城を攻めるが、山麓の和白(わじろ)において怒留湯融泉(ぬるゆゆうせん)に敗れた。これに勢いづいた怒留湯融泉は立花城主立花鑑載(あきとし)とともに宗像に攻め入ったが、宗像勢は飯盛山城で迎え撃ち立花勢を退けた。占部家系図には占部貞保が立花城下で戦ったことと、祖父尚安が飯盛山下で戦ったのを記録している。尚安が戦った日を永禄9年9月10日としているが、永禄10年の事と考えた方がいいだろう。9月10日の飯盛山下での合戦に対して氏貞から吉田氏宛て感状が残っている。又、立花里城での戦に対し、三戸新兵衛尉の注進により、貞保他諸氏宛て毛利元就の感状が残っている。

    永禄10年からの立花勢と宗像勢の攻防については、残る記録の日付けが様々で諸氏の記憶に交錯が多い。又その勝敗についても同様である。ただ、永禄10年(1567年)10月には、宗像郡に進入した大友勢が宗像勢と戦い、田島及び東郷両口を放火し、鎮国寺と興聖寺も炎上、多くの田島屋敷が被災したというから、やはり力の差は歴然としていたようだ。

  12. 人間七七四年 | URL | EybeWf1w

    軍記ものだし、宗像側としては滅んだ鑑載より道雪のほうが聞こえもいいんじゃないの?

  13. 人間七七四年 | URL | -

    怒留湯融泉って、暴走族みたいな名前だな。

  14. 人間七七四年 | URL | -

    ※13
    ぬるゆさんに興味があるのかい?
    だったらこいつを持ってきなよ!

    上和白の戦い
    ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8752.html

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