毛利輝元、自分の少年時代を振り返って

2018年06月30日 21:10

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/30(土) 14:43:23.66 ID:wJckDjva
毛利輝元、自分の少年時代を振り返って


以下は毛利輝元が、毛利秀元と福原広俊を通して嫡男の秀就(数えで19才)に
訓戒させるため、慶長18年(1613年)12月に送った書状。
長いので意訳&抜粋。


私が長門(秀就)の行儀に対して堅く申し付けてはいないのだと、世上で
言われています。(実際行儀はよくないので)仕方がないことではありますが
私は知音の上方衆から、(秀就が)領国に帰ると手荒く居丈高に物事を申し付け
『近年の毛利家中は申し付け様が緩いのでよくない。
 手荒く申すようにすれば人が恐れるだろう』
などと申していると聞きました。

私にも少々荒く申し付けた方が若い者らしく、人も(立派に思って)驚くと
下々の者が申したことがあり、それを真に受けてそのように振る舞っていたときが
ありました。しかしそれでは下々の者が迷惑し憎むようになるのでよくないと
聞いた後はそれに合点して、その後はよい振る舞いをするようになりました。
総じて若い間は、礼儀も善悪も全くないものなのです。

まぁ私も立派な人間ではありませんから、申すようなことはありません。
十一で親(隆元)と離れ、十三で嶋根陣(月山富田城の戦い)に行き
日頼様(元就)の側に詰めるようになってからは、私は十九になるまで、お側を
離れず御奉公したものの、それでも立派な人間になることは出来ませんでした。
良くも悪くも日頼様の御意を窺って、それが親子の間での最上の振る舞いだと
思っていないと仕えていくことは出来なかったのです。

日頼様の(私への)御折檻は内々に人目を憚ったものでしたが、今も存じている者が
いるはずなので、尋ねてみてください。そういう訳なので私はこの年になっても
世上を敬い、当世の利根才覚がないので大事大事と朝夕考えながら日々を過ごして
国主などになりました。今時の風潮とは違うようですが(このような有様なので)
一つとして私は(秀就に)毛頭申すことなどありません。


――『毛利家文書 一一五七号』



901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/30(土) 15:08:18.32 ID:0QCKxBzw
>>900
謙遜じゃなくてマジなのがせつないというかなんというか…

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/30(土) 16:38:51.60 ID:WAV9ogJV
なんか、尻すぼみ感がすごいな。輝元自身が、シオシオとなっていく感じが…

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/30(土) 17:46:36.57 ID:v37hq9s4
偉大な祖父や叔父からひどい折檻受けて育てばなぁ…。
優秀すぎたせいで、そこそこの出来の子供の養育方法わからなかったのかもしれない。

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/30(土) 19:49:43.61 ID:Gy5MCzvM
アレらが殿上人のような存在だと自分を卑下してイエスマンで有り続けるしかない
次期当主がそれだと困るから折檻されるのだが思うようにやっても結果が伴わないので結局折檻される
こうして歪んでいき結果傾国したのであった

905 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/01(日) 21:47:16.21 ID:X9OW92xd
> それでも立派な人間になることは出来ませんでした。
> 良くも悪くも日頼様の御意を窺って、それが親子の間での最上の振る舞いだと
> 思っていないと仕えていくことは出来なかったのです。

隆元も、元就に対して同じような気持ちだったんじゃないかな。せつないなあ……。

906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/02(月) 12:25:56.88 ID:bR/a18wF
>>900
自分を虎だ龍だと思い込んでる奴よりは余程好感が持てる
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    読んでいて切なくなっていったよ…
    テルって平和な時期の50万石ぐらいまでの領主ならまずまず大過なくやっていける能力はあったと思うけど、大毛利家の跡継ぎでかつ豊臣政権の大老になったのはチョット不幸だったよな
    まぁ関ヶ原前後の毛利家の不穏な動き見るとテルも不相応な野望を持っていたようだが

  2. 人間七七四年 | URL | -

    西軍の総大将引き受けたのは、関ヶ原のどさくさ紛れに豊家の名前を使って領地を広げる為だった…という感じの説もあるようで

  3. 人間七七四年 | URL | -

    光成氏の「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」っすな
    あれは論文を元にした良い本なんだけど内容のいくつかは史料の誤読等で批判されたりもしてますね

    関ヶ原の場合、当初輝元の方針が行きわたらず混乱はあったものの、その後は家中・国衆の統率に乱れは出てないので無能からはほど遠い感じです。
    あと輝元の行動が野心から出たものかどうかは不明かと、この時代公儀としての行動かどうかってのは曖昧な時代ですから。

  4. 人間七七四年 | URL | -

    生まれた家が悪かったのか?特殊すぎたのか?
    テルは歴史ファンからの弄られキャラでもあるけど、
    決して無能って意味じゃないしね。

    でも「まぁ私も立派な人間ではありませんから」
    に関しては、周姫の件があるから本当だよね。

  5. 人間七七四年 | URL | -

    ※3
    毛利の場合秀吉が「西国の責任者はオマエな」という雰囲気を出しつつ
    かといって上位指揮権を与えたわけでもないという雑な処理の割を食った感が
    輝元からしたら曖昧過ぎる職掌を自分なりに解釈した結果があれなのかもしれない

  6. 人間七七四年 | URL | -

    ※5
    でも西国で一定の領地と兵力、それに実力を持ってるのって毛利家くらいしかないしね。
    他はその毛利にやられたか、毛利以外の小名(国人)の集合体だし。
    せいぜい宇喜多家ぐらい?(四国と九州は別の地域ってことで入れないで考えてみた)

  7. 人間七七四年 | URL | -

    テルさんは利家が秀頼のもり役になってから政権内での影が薄いよね
    いわゆる大老でもそれなりに役割があるのは家康・利家だけだったし

  8. 人間七七四年 | URL | -

    輝元に限らず毛利一族は全部見ると長いよな文は

    輝元の治世は
    隆元死後(元就存命から)その隆元側近を引き継ぐも
    特にその側近から強く警戒され、後ろ盾が必要だった御四人(吉川、小早川、福原(貞俊)、口羽)
    特にその武勇において毛利家新参に忠誠を誓わせるには御四人の実績が必要な輝元と
    双方に弱みがあって共同であたった対織田期

    御四人退場で穗井田、安国寺、福原(広俊)、渡辺ら年寄に任じ、自らがその能力を見込んだ出頭人(二宮、張、堅田、佐世、榎本、内藤)を中心に主導することで当主基盤も権力も強化した豊臣期。
    2派が対立関係になってもそれを上手く利用していた

    出頭人が後退し、一時的には国衆の発言が増してしまい、再び緩む家中を粛清により締め上げ
    秀就のために内政をもう一度固め直すも
    関ヶ原以前から問題になってた吉川(や福原)と秀元の対立が激しくなり、そこに徳川幕府以降に取り立て年寄格・側近になった者も参戦したがために完全隠居しようにできず、秀忠に隠居願いを許可されても内政に自身がところどころで関与しないと纏まらなかった徳川期

    こいつが1人右腕となってたらセットで後世語られることもあるんだろうけど
    そういうことがなかったから後世に治世全般がいまいち認知されんのだろうな

  9. 人間七七四年 | URL | -

    輝元「ここに3本の矢があった」

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