80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/16(月) 16:13:14.19 ID:sF4DeMO/
水谷勝隆ノ乳母勝隆ヲ護シ難ヲ逃ル
慶長5年(1600)、関ケ原御陣の時、水谷勝俊は関東におり、その子・勝隆は4歳で
京都にいた。この時、石田三成は勝隆を捜索したので、その乳母は勝隆を背負って
摂津国山崎辺りへ逃れた。しかし訴人により小野木縫殿助(重勝)と川勝備後守(秀氏か)
が勝隆を捕らえようとかの地にやって来ると聞き、乳母はまた夜中に勝隆をだき抱えて
山崎のやのうらから小舟に取り乗って八幡の松坊へとやって来た。ところがここにもまた
島津の家人が尋ね来ると風聞したので、東山の麓にある近衛殿(近衛前久)の
龍山の幽居に赴いた。乳母は泣き告げて「これは水谷の児子でございます。君(前久)は
久しく彼の父を御存じでありましょう。どうかこの子の命を御助けください」と言った。
この時、近衛殿は憐れんで20日間、小風呂の中に勝隆を匿いなさった。その後、関ケ原
の凶賊等が敗北したので、勝隆は危険を免れることができたのである。
――『日本戦史 関原役補伝(寛永諸家系図伝)』
水谷勝隆ノ乳母勝隆ヲ護シ難ヲ逃ル
慶長5年(1600)、関ケ原御陣の時、水谷勝俊は関東におり、その子・勝隆は4歳で
京都にいた。この時、石田三成は勝隆を捜索したので、その乳母は勝隆を背負って
摂津国山崎辺りへ逃れた。しかし訴人により小野木縫殿助(重勝)と川勝備後守(秀氏か)
が勝隆を捕らえようとかの地にやって来ると聞き、乳母はまた夜中に勝隆をだき抱えて
山崎のやのうらから小舟に取り乗って八幡の松坊へとやって来た。ところがここにもまた
島津の家人が尋ね来ると風聞したので、東山の麓にある近衛殿(近衛前久)の
龍山の幽居に赴いた。乳母は泣き告げて「これは水谷の児子でございます。君(前久)は
久しく彼の父を御存じでありましょう。どうかこの子の命を御助けください」と言った。
この時、近衛殿は憐れんで20日間、小風呂の中に勝隆を匿いなさった。その後、関ケ原
の凶賊等が敗北したので、勝隆は危険を免れることができたのである。
――『日本戦史 関原役補伝(寛永諸家系図伝)』
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コメント
人間七七四年 | URL | -
三成「また僕が悪者なの」
( 2018年07月17日 17:33 )
人間七七四年 | URL | -
※1
逸話の真意はともかくとして、実際に人質確保したのは事実なのだから
捕まえる側としての登場は止むを得ないでしょ?
( 2018年07月18日 14:01 )
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