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鈎の陣

2018年07月17日 21:11

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/16(月) 22:15:21.41 ID:ZMGQkMUJ
文明一統(応仁の乱の終結)の後も、諸国では先の乱の餘類が尚も国々に散在し、互いに押領を繰り返し、
兵革が止まなかった。その中でも近江国の佐々木六角高頼は、畿内近国に在りながら、上洛することもなく
公方の下知に従わず我意に任せて逆威を振るい、あまつさえ山門の領地まで妨げ、山徒の訴訟頻回となり、
これ以上放置する訳にはいかないと、征伐有ることに決まり、長享元年9月12日、新将軍家(足利義尚)は
数多の軍勢を供として江州へ出陣した。

その日の内に坂本まで進み、そこにしばらく陣を張ると、越前守護であった故朝倉氏景の家督、弾正左衛門
孝景が多勢を引き連れ馳上がって味方に加わった。朝倉が合流すると即座に六角高頼を攻めたところ、
高頼も一家尽く出陣しこれと合戦に及んだが、新将軍家は武勇を励まされ、お供の人々は我劣らじと攻め戦ったために、
高頼もついに一戦に打ち負け、自身の居城である観音寺山を落ちて、山賊の望月、山中、和田といった者達を頼み
同国甲賀山の中に隠れ行方知れずとなった。

しかし新将軍家はこのようになってもそのままにはしなかった
「かつて宝筐院殿(足利義詮)の時、南方(南朝)の敵徒御退治として、京鎌倉よりおおよそ天下の大軍を
集め、大樹自ら南方へ出陣した。敵はすぐに退散し国中が治まったため、敵が少しばかり山中に隠れて居たものの、
『何程の事もない』とすぐに帰陣されてしまった。ところがそれから、楠や和田と言った者たちは南帝を守護し
身を潜めて吉野の奥、賀名生の山中に隠れており、大樹が帰座すると幾程もなく立ち返り、国人らもこれに
同調して、また元のように蜂起し、大樹が南方に出陣した功は無となった。

その後、鎌倉御所の足利基氏はこの前例を後悔し、東国新田の氏族退治として武州入間川に出陣した時は、
ここに数年に渡り陣を取って毎日敵徒を捜索し、幾程もなく新田の氏族は尽く征伐された。
そして敵が尽く果てた後ようやく鎌倉へと帰陣したため、以後関東は再乱の心配もなく諸人が安堵する
治世を成した。然らば、今の六角もこのまま帰座してはまた元のように帰還し、六角の譜代の家人や重恩の
国人たちは彼に同調し蜂起して状況を覆すだろう。そうなっては今回の征伐の甲斐もない。
今回はとにかく、孝頼を初めとして残党たちを一々に探索し敵の根を絶ち葉を枯らして後難無きように誅伐
しなければならない。」

義尚はそう下知したが、甲賀山は深嶺幽谷、人跡絶って攻め入ること難しく、探索は難しかった。
また六角の残党たちは数多く、その旧領は広く、一類は所々に隠れていて短期間に征伐することは
無理であったので、「順々にかの輩を探し出して誅伐すべき」と、10月4日、義尚は坂本より琵琶湖を船で
渡って安養寺に陣を変えた。この事を父である東山殿(足利義政)へ使いを以て知らせた、そこに次の歌を
付けた
 坂本の 浜路を過ぎて波安く 養ふ寺に住と答へよ

東山殿はこれに返歌して
 頓にて 又国治りて民安く 養ふ寺も立そ帰らん

28日に同国鈎の里に着陣し、ここに3ヶ年まで在陣して六角高頼の行方を捜索し、また六角の徒党の輩を
一々に退治した。
同年12月2日、侍従中納言実隆卿を勅使として今上天皇(後土御門天皇)より忝なくも陣中に御製を下された
 君すめは 人の心の鈎をも さこそはすくに治めなすらめ

義尚より返歌を献上し
 人身 鈎の里の名のみせる 直なる君が代に仕えつつ

かくして長陣の間の徒然を慰めるため、かつ心得のためとして折々に、春秋、伝卜、孝経の講義を受けた。
彼は天下の乱を退治し太平の世にしようという志が深かったため、片時も自身の時間を無駄にしなかった。
翌年9月、義尚は内大臣に任命された。この時名を義煕と改めた。
ところが長享3年の春、体調を崩した。当初は大したことはないと考えられたが、次第に重体となり、
治療も祈誓も験無く、同年3月26日辰の刻、鈎の里の御陣所にて逝去された。
父君東山殿、御母公大方殿(日野富子)の嘆きは例えようもなかった。
この義尚公は御歳未だ25、器量、才芸、皆以て世に超え、特に天下の武将としての行跡もいみじきもので
あったのに、この人が世を去ってしまったため、「天下の兵乱はついに治まること無く、扶桑一州は長く
戦国の世となるだろう」と、貴賤上下の別なく嘆き悲しんだ。
(應仁後記)

鈎の陣についてのお話


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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    義尚って志半ばで倒れた有能扱いだったり若いうちから酒に溺れて身を滅ぼした無能扱いだったりキャラ安定しないよね

  2. 人間七七四年 | URL | -

    生きていてほしいと思う人も早く死んでくれと思う人も多かっただろうから毀誉褒貶は激しいんだろうな

  3. 人間七七四年 | URL | -

    鈎行の陣 かと思ったがぜんぜんちがった

  4. 人間七七四年 | URL | -

    この意気軒昂な義尚に比べて、義政と後土御門天皇の反応がものすごい温度差あってなんともかんとも、な感じがすごいな。
    成果を誇る義尚に対して、一見褒めそやしてるように見えて、早く帰ってきての一点張りってところが、義尚が愛されてるような、信用されてないような、微妙なとこが透けて見えるというか。

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