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毛利隆元と芸豊和平

2018年07月24日 17:54

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/23(月) 20:51:59.22 ID:lDBGrq6m
永禄6年、大友宗麟毛利元就とは昔日は和睦していたのだが、大内義長切腹の後不和となった。
元就は考えた、「大友宗麟は無双の弓取りである。その上防長両国には大内義長に好の有る者達も
多い。彼らは何か有れば、志を変じ大友に靡き従う可能性もある。」
そこで元就は長男隆元を両国の押さえとして周防に下し、岩国の永興寺に在陣した。

このような所に、大友宗麟はこの年の2月中旬、豊前国神田の松山城を2万余騎もいぇ取り囲み
攻め破ろうとしたが、ここを守る天野紀伊守が能く城を守り、非常に堅固であったため。大友は
遠攻めへと戦術を切り替えた。

しかしこの事は、九州の高橋、長野といった国衆達が元より毛利に志深かったため、毛利隆元
飛脚を以って知らされた。隆元は即座に「後詰めの軍勢を出す!」と彼自身が防府まで進み防長の
軍勢を集結させた。

ここで、京の将軍である光源院(足利)義輝公より、毛利には聖護院、大友へは久我大納言殿が
使いとして派遣された

『近年諸国兵乱の事、これらは偏に、上を蔑ろにするが如き所業である。然らば、大友毛利は
速やかに和睦し、中国九州を静謐にする事こそ肝要である。』

こう言った旨が仰せ下され、両家は大樹の高命に従い和平を成した。

これによって九州表は無為となったが、隆元は「今なら大友も強く反発しない」と判断し、
門司、下関の城に兵卒を入れその支配を固めた。
その上で周防を出立し出雲へと向かったが、途中の芸州佐々部の宿にて急病を患い、8月14日、
享年41にて終に逝去されたのである。

(安西軍策)

毛利隆元が、将軍による大友との和平を利用して関門海峡を確保していたというお話。しかし直後…。



102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/23(月) 20:58:21.15 ID:UveR13y3
隆元といい義信、信康といい長男早死にの呪いでもかけられてたんか??

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/23(月) 22:49:38.07 ID:ADf4FCYr
>>102
真田信之「ですよねー」

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/24(火) 04:18:49.02 ID:009fkQrR
>>102
義信じゃなくて義興だろ

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/24(火) 05:33:19.95 ID:RtqkchvC
>>102
武田信繁「せやろか?」
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    元就の本来の構想は
    九州=隆元
    山陰=元春
    山陽=隆景
    だったんじゃないかと思うのよね。
    大内輝弘にしてやられたのも隆元不在が遠因では。

  2. 人間七七四年 | URL | -

    大内義興は52歳は別に早死にではなかろう。
    隆元の40歳も当時だとそこまで早死にではないはずが、元就はもちろん輝元も長生きしてるだけに悪目立ちするよね。

  3. 人間七七四年 | URL | -

    北条幻庵・天海「50代も40代もまだまだ若い」

  4. 人間七七四年 | URL | EybeWf1w

    ※2
    三好のほうだと思うぞ

  5. 人間七七四年 | URL | JPG8Eu66

    ※1
    毛利家の当主の隆元を毛利の本拠地の安芸から引き離して九州なんかに赴任させるわけないだろ

  6. | |

    管理人のみ閲覧できます

    このコメントは管理人のみ閲覧できます

  7. 人間七七四年 | URL | -

    ※5
    支配体制の確立されてない最前線の地域に最も信頼の置ける当主の隆元送るのは有りだと思うけど?

  8. 人間七七四年 | URL | -

    そーりん「無双ではなく双刀です」

  9. 人間七七四年 | URL | JPG8Eu66

    ※7
    支配体制が確立されてないならますます最前線に当主を送っちゃダメじゃねえか
    そもそもその後も長生きしたから失念してるのかもしれんが大内を滅ぼした時点で元就はもう60すぎのいつ死んでもおかしくないジジイだぞ
    元就が病気で倒れたり突然死んだりしたら隆元が毛利軍総大将として毛利全体の指揮をとらなきゃならんわけだしそういう意味でも本拠地の安芸から引き離して九州統治させるなんかリスキーすぎるわ

  10. 人間七七四年 | URL | -

    ※9
    読めば分かると思うが、隆元は元就の意志で周防へ赴き、宗麟の動きを知るや自らの意志で兵を集めて防府まで行ってる事実があるんだけど
    そこで和議が成ったから踵を返して行った訳だが和議が成らなかったらそのまま其処へ留まってたとでも?

  11. 人間七七四年 | URL | -

    もっと言えば毛利に限らず尼子、大内、織田、長曾我部、龍造寺、伊達、etc…
    支配地でないところへ当主が自ら兵を率いて戦に臨んだ例は同時期を探しても沢山あると思うのだが

  12. 人間七七四年 | URL | JPG8Eu66

    ※10※11
    兵を率いて出征することと支配地に赴任させて統治させることは全く違うんだがなにを言ってるんだか
    隆元が軍を率いて前線に行くことを否定してるんじゃないんだけどそのくらい読めばわからない?
    織田家で例に挙げるなら信忠は信長から家督を譲られたあと織田の長年の領地の濃尾を統治をしつつ濃尾の将兵を率いて畿内や播磨や甲信で戦ってたけど武田征伐の戦後処理のあと直接武田遺領を自分の領地に組み込んで自分が甲信に乗り込んで統治を開始したわけじゃないだろ?
    そういう意味で隆元が毛利の本拠地の安芸を離れて九州に赴任して統治するのはないだろと言ってるのに隆元は兵を率いて前線まで行った事実がある!支配地でないところに当主が自ら兵を率いて戦に臨んだ事例もある!とか言われても的外れすぎて困るんだよね

  13. ※1 | URL | -

    ※5
    隆元が九州に赴任するなんて言ってないぞ
    九州「経略担当」、あるいは九州「方面軍」という程度の意味だ
    ※12で挙げてる信忠の例とまさにそっくりで、隆元は基本山口を拠点に九州に領土拡張する役割ということ
    そして元春が日野山城を拠点に山陰に勢力を伸ばし、隆景が新高山城から山陽を目指す
    それが本来の「三本の矢」だったんじゃないのっていう話だけどそのくらい読めばわからない?

    「藁人形論法」っていう言葉をJPG8Eu66が知ってるかわからないけど
    言ってないことを取り上げて攻撃されても的外れすぎて困るんだよね

  14. 人間七七四年 | URL | -

    おいおい、2chみたいに見苦しい個人攻撃になっているよ
    すこしは冷静になれや

    あ、ここ2chのまとめさいとだった

  15. 人間七七四年 | URL | -

    ※13
    そりゃ書き方が悪かったね。元春や隆景は拠点もそれぞれ山陰山陽なんだから、並べて書いてあれば隆元も九州に居留させると受け取ってもそう変じゃないかと

  16. ※1 | URL | -

    ※15
    せめて「九州」じゃなく「旧大内領」と書いとけばちょっとはましだったかなと正直思っている

  17. 人間七七四年 | URL | -

    ※16
    たらればでしかないけど、幕府の停戦仲介で大友との和議が成らなかったら隆元が九州に乗り込んだ可能性も有るには有ったと思うけどね。
    毛利としては二正面作戦になるからこの時点での九州への深入りは避けたい流れだったと思うけど。

  18. ※1 | URL | -

    ※17
    対大友より対尼子の方が圧倒的に重要だからどちらか諦めるなら九州しかなかったよね
    とはいえ大友とは尼子を潰した後でまた対立してるから、
    (恐らく大内系国人にコネクションのあった)隆元が存命なら大友かなりピンチだったのではとも思う

  19. 人間七七四年 | URL | -

    歴史にもしはないけど、仮に毛利家が九州方面を統治していくとなると、誰に任せるんだろうか、興味深い話しだよね。

  20. 人間七七四年 | URL | -

    ※19
    穂井田元清… は隆景べったりだったし山陽担当だから無いかな?

  21. 人間七七四年 | URL | -

    ※19※20
    意外に輝元の叔父+大内旧臣+長門守護代となにげに好条件揃いの内藤隆春とか適任では。

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