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『お静の涙雨』(またはお静の血の涙)

2018年10月07日 14:58

277 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/10/06(土) 20:11:11.24 ID:HbSLVMGi
1万以上も記事があるのに何故この逸話がないのかが不思議だから投下。
今回は城の看板から。そのまま書くのは憚れるので、表現を加えたりします。


戦国時代の建築は死と隣り合わせと言っても過言ではない。運んでいた石が落下したり、積んでいた石垣が崩れ落ちるなど、死者は相当なものであった。
そのため、当時は人柱をすることで災害などで破壊されないように城の完成を祈願する目的があった。
この当時、誰が人柱になるかはそれぞれ異なっており、たまたま通りかかったから人柱にされたり、定めた日の1番目にその城に来たから人柱にされたり、籤引きによって人柱にされるケースもあった。


1576年、柴田勝豊は丸岡城を築城していた。
しかし、何度天守閣の石垣を積んでも崩壊したため、人柱を入れることとなった。
そこで選ばれたのが2人の子供を抱えて貧乏な暮らしを強いられていた隻眼の女性であるお静であった。
生活に困窮していたお静はせめてでも子供だけはという親心があったのか、子供のうち1人(2人説もある)を侍に取り立てて勝豊に仕えさせてもらえないだろうかと頼んだ。
勝豊のほうもこの条件で了承し、お静は人柱となって埋められた。


こうして丸岡城の天守閣は立派に完成した。
さあこれでお静の子供も侍に、となるはずであった。
ところが、勝豊はどこぞに転封を言い渡された。(長浜には1582年に転封)
『息子を侍に取り立てるだと?あれは嘘だ。』とばかりに、お静の子供は侍にしてもらえなかった。恐らく転封先でさえ連れて行ってもらえなかったのだろう。


折角自らの命を犠牲にしてまで子供の幸福と城の繁栄と引き換えにしたお静はこの反故に失望と激怒したことだろう。
お静は事実上怨霊となり、藻刈りをする卯月に大雨が降り、洪水が起きたため、人々は『お静の涙雨』(またはお静の血の涙)と呼び小さな墓を建ててお静の霊を慰めた。
(現在でもこの時期に雨量が増えるのは丸岡の両隣に該当する坂井市春江や勝山市が該当している。気象庁参照。)


一方、勝豊はお静が死んだ7年後に死んだ。
どこぞの西国の大名ならば人柱となって埋められたはずの娘が実は生きていたという美談があったものを、結局のところ今回は全員不幸になってて胸糞悪い。


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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    逸話だから別にいいんだけど、この手の人柱系はあるあるネタだからなー
    学校とか病院とかでも建設中に人が死んだ(から埋まってる)みたいな怪談は多いのよ

  2. 人間七七四年 | URL | -

    まだ迷信深い地方大名なら資料も少ないし分からないでもないが、織豊大名が人柱とかするかな?
    信長・秀吉はいくつも城を造営したし戦乱、火事や地震で無くなった城もあるがそういう人柱で祈念したという話はない
    鬼武蔵や田中吉政みたいな極端なやつは流石に当時でも珍しいだろうが、占領軍として入部し今までとは桁違いの規模の城の建設という労役を課す中、地元民を敵に回すような事はやらないと思うけどね

  3. 人間七七四年 | URL | -

    熊本城・菊池川の治水工事(加藤清正)
    松江城(堀尾吉晴)
    丸亀城(生駒親正)

    調べれば織豊系大名もそれぞれの封地で人柱当たり前のようにやってるけど?
    福島正則は広島で治水が難航した際、人柱の代わりに刀を埋めさせたり、金出して祭りを開催して参加費は石を持って来て堤の上で踊る事、としたた逸話があるけどね

  4. 人間七七四年 | URL | -

    ※3
    イヤだからそれがホンマかいな?って話
    熊本城絡みだと人柱系ではないが山伏塚も有名だけど地元の人の研究で嘘だと判明しているしね
    難工事で事故死が多かったのがそんな風に伝わったとしか思えんわ

  5. 人間七七四年 | URL | -

    *4
    伝わる逸話や伝承を事実か否か論ずるなら全て有ったかも知れないと言う仮定で話をするしかないわけだが
    *2が言う
    「迷信深い地方大名なら資料も少ないし分からないでもないが、織豊大名が人柱とかするかな?」
    という問いに対しては織豊大名だから人柱をしないとは限らないと結論付けることができると思うよ

    「地元民を敵に回すような事はやらないと思う」
    黒田、仙石、森、加藤が入部先で行ったとされる地侍や農民などとの衝突や抗争の逸話を見るに、
    そんなことも無いと思うけどね

  6. 人間七七四年 | URL | -

    あった前提はおかしいだろ。

  7. 人間七七四年 | URL | -

    根拠のない話をただ主張するだけってのは荒れるからやめときなよ
    建設的に議論を進めたいなら自分の考えを裏付ける史料を提示すれば良い

  8. 人間七七四年 | URL | -

    ※4
    山伏塚の研究の件教えてプリーズ
    アレが嘘だったと結論づけられたって初めて知ったわ
    地元の人の研究ってのがちょっとだけ引っかかるんですけどソースが見てみたい

  9. 人間七七四年 | URL | -

    伝承は伝承で事実かどうかは知らんけど、
    ※2さんは信長や秀吉が人柱で祈念した話は無い、織豊大名が人柱とかするか?
    と言うが、秀吉にも長浜城の築城時に2人の人柱を出したと言う話があるね。信長は分からないけど丹羽長重にも有ったりするし、
    ※4さんの言うように工事の事故犠牲者が噂に尾ひれはひれで人柱と伝わった可能性もあるけど、地方大名は迷信深いから~とか織豊大名は移封されて地元の人敵に回せないから人柱なんて出さないだろうと断ずる事は出来ないと思う。

  10. 人間七七四年 | URL | -

    織豊系の大名は先進的だからそんなことしない
    なんつーのも
    根拠がない印象や願望じゃないかね

  11. 人間七七四年 | URL | -

    ※10
    人柱とはまた違うかも知れないが、織田信長なんかも火起請と言う名の迷信じみた神前根性焼きの逸話があるし、何で織豊系大名は…なんて考えに至ったのかはちょっと聞いてみたいね

  12. 人間七七四年 | URL | -

    事実はどうなのか知らんが、話だけなら工事にてこずって人柱立てたなんてのは明治になってからでもあるからなあ。いくら先進的でも、実際に賦役に従事するのは大名じゃないしね

  13. 人間七七四年 | URL | j7kPgX2Q

    人柱って言っても地元民の反感買わない方法あるしなあ
    これみたいに生活苦の人を募集とか、あと巡礼とか旅してるのを捕まえる手もあるし

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