282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/08(月) 02:48:46.60 ID:bp/PQxUM
名胡桃城について、北条氏直の言い分
天正15年11月に、北条家臣が名胡桃城を占拠する事件が発生した。
以下は同年に、北条氏直が秀吉の検使にあてた書状の意訳。
条目
一、老父の上洛が延びたことで御立腹され、沼津に下向されるとのこと。
六日の手紙は思いがけないことでした。そもそも夏に妙音院、一鴎軒(宗虎)が
下向した際に、截流斎(氏政)の上洛はもちろんさせますが、今年は無理がある。
でも来年の春夏の間になら出来ますよ。という話を筋道立てて説明したのに
しきりにそれでは済みませんよと言ってきました。それで公儀の事は了簡に
及ばないので、今月中に半ばまで行き正月中には京に着く予定にしました。
先年家康が上洛した際には骨肉を結ばれて(秀吉の妹の朝日と家康の結婚のこと)
大政所を三河にまで移されたとお聞きしたのに、名胡桃のことで御立腹されて
いるので、ずっと留め置かれたり国替になるかもと方々から声が上がっています。
一度(そっちに行ったら)帰国は出来ないんじゃないかと截流斎も申しています。
(私たち)父子の国のこともお察しして下さい。だから妙音院、一鴎軒を招いて
たとえこのまま在京になるとしても心中晴れやかに心やすく上洛するでしょうと
申したのです。他の意味はありません。
一、今度の祝儀で上洛させようとした石巻(康敬)の待遇で、面目を失いましたのに
更に私に対しての扱いもおかしいのはどういうことなんでしょうか。御両所に
恨み入ります。四日に妙音院をこちらに招いたのは、石巻の待遇の理由がよく
分からないので内々に尋ねるためだったのです。そうしたら途中で捕まった
ことを聞かされたので、それは書付にて申し述べることとします。
一、こんなことになっていますが、疑心を持たずに扱ってくれるなら上洛すると
截流斎は申しています。御両所の御分別に期待します。
一、名胡桃のことは一切存じません。城主の中山が出してきた書付によると
既に真田がこちらへ渡していたものなので取り合いにはなっておらず
越後衆が半ばあたりまでやってきて信州川中島と知行替えと申していると
沼田から連絡があったので加勢したとのことです。越後のことは昔からの
敵なのでやってきたら一日たりとも沼田は安泰にならないでしょう。まぁ
彼が申すことが本当かどうかは知りません。家康にもこれを伝えましたから
徹底的に調べて、二、三日中には報告することが出来るでしょう。決して表裏
ではないですよ。名胡桃に下向されたとき、百姓屋敷を見分されたでしょうに。
一、以前給わった吾妻領は真田のせいで百姓が一人もいなくなりました。加えて
中条という地では、人は以前のところに詰めていて渡ってきません。こういう
些事は申すことではないので打ち捨てて下さい。なんといっても名胡桃のことで
対決する上は何事もお任せします。以上。
十二月七日 氏直
富田左近将監殿
津田隼人正殿
――『武家事紀 巻第三十三』
283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/08(月) 09:38:17.76 ID:w62eEAoQ
名胡桃城といえば考古学的調査で名胡桃城事件の頃の遺物はほとんど出土せず、
火災の痕跡も若干のみで、とても戦闘で落城したとは考えられず、平和裏に開城したのではないか、
という話が武井英文先生の『戦国の城の一生』に出てた。
名胡桃城について、北条氏直の言い分
天正15年11月に、北条家臣が名胡桃城を占拠する事件が発生した。
以下は同年に、北条氏直が秀吉の検使にあてた書状の意訳。
条目
一、老父の上洛が延びたことで御立腹され、沼津に下向されるとのこと。
六日の手紙は思いがけないことでした。そもそも夏に妙音院、一鴎軒(宗虎)が
下向した際に、截流斎(氏政)の上洛はもちろんさせますが、今年は無理がある。
でも来年の春夏の間になら出来ますよ。という話を筋道立てて説明したのに
しきりにそれでは済みませんよと言ってきました。それで公儀の事は了簡に
及ばないので、今月中に半ばまで行き正月中には京に着く予定にしました。
先年家康が上洛した際には骨肉を結ばれて(秀吉の妹の朝日と家康の結婚のこと)
大政所を三河にまで移されたとお聞きしたのに、名胡桃のことで御立腹されて
いるので、ずっと留め置かれたり国替になるかもと方々から声が上がっています。
一度(そっちに行ったら)帰国は出来ないんじゃないかと截流斎も申しています。
(私たち)父子の国のこともお察しして下さい。だから妙音院、一鴎軒を招いて
たとえこのまま在京になるとしても心中晴れやかに心やすく上洛するでしょうと
申したのです。他の意味はありません。
一、今度の祝儀で上洛させようとした石巻(康敬)の待遇で、面目を失いましたのに
更に私に対しての扱いもおかしいのはどういうことなんでしょうか。御両所に
恨み入ります。四日に妙音院をこちらに招いたのは、石巻の待遇の理由がよく
分からないので内々に尋ねるためだったのです。そうしたら途中で捕まった
ことを聞かされたので、それは書付にて申し述べることとします。
一、こんなことになっていますが、疑心を持たずに扱ってくれるなら上洛すると
截流斎は申しています。御両所の御分別に期待します。
一、名胡桃のことは一切存じません。城主の中山が出してきた書付によると
既に真田がこちらへ渡していたものなので取り合いにはなっておらず
越後衆が半ばあたりまでやってきて信州川中島と知行替えと申していると
沼田から連絡があったので加勢したとのことです。越後のことは昔からの
敵なのでやってきたら一日たりとも沼田は安泰にならないでしょう。まぁ
彼が申すことが本当かどうかは知りません。家康にもこれを伝えましたから
徹底的に調べて、二、三日中には報告することが出来るでしょう。決して表裏
ではないですよ。名胡桃に下向されたとき、百姓屋敷を見分されたでしょうに。
一、以前給わった吾妻領は真田のせいで百姓が一人もいなくなりました。加えて
中条という地では、人は以前のところに詰めていて渡ってきません。こういう
些事は申すことではないので打ち捨てて下さい。なんといっても名胡桃のことで
対決する上は何事もお任せします。以上。
十二月七日 氏直
富田左近将監殿
津田隼人正殿
――『武家事紀 巻第三十三』
283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/08(月) 09:38:17.76 ID:w62eEAoQ
名胡桃城といえば考古学的調査で名胡桃城事件の頃の遺物はほとんど出土せず、
火災の痕跡も若干のみで、とても戦闘で落城したとは考えられず、平和裏に開城したのではないか、
という話が武井英文先生の『戦国の城の一生』に出てた。
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コメント
人間七七四年 | URL | -
名胡桃城の件、北条に非がなかったとしたらやっぱり絵図を描いたのは秀吉側なのかな
真田が主導して仕組んだことなら軍記物っぽいが
( 2018年10月08日 17:54 )
人間七七四年 | URL | -
※1
まあ境目の相論なんてのはどっちも自分が正しくて相手に非があるって
主張するもんだしなんとも言えんね
( 2018年10月08日 18:08 )
人間七七四年 | URL | -
事件そのものの理非じゃなくて、事件時の対応が仇になったんでない
黒田先生が指摘してるように、秀吉側の検使の対応もダメダメなんだが
この書状見ても、家康の扱いと比べて不満をにじませてるし
( 2018年10月08日 18:22 )
人間七七四年 | URL | -
約束違反や偽和睦やだまし討ちは豊臣の十八番だし
( 2018年10月08日 18:37 )
人間七七四年 | URL | -
秀吉の発言を見る限り、この時城を奪った事よりも、
氏政が上洛の約束を破ったことを問題視していたようだけどね。
北条が約束を破って合戦をしたのはこれが最初ではないし、ここ数年ずっと総無時令に違反して周辺国を侵略していたんだから、まあそれは今さらだよねえ
家康みたいに上洛をごねていい条件を引き出そうとして、その見極めを誤ったというところだろう
( 2018年10月08日 19:19 )
人間七七四年 | URL | -
※5
家康が上洛をごねてたなんてのはもう通用しない説だよ
( 2018年10月08日 19:58 )
人間七七四年 | URL | -
氏直「北条に逆らう意思なんてないって」
秀吉「早く来いっつんてんだろ」
氏直「名胡桃城は正式に譲り受けたんだってば!」
秀吉「だからそんなことより早く来いっつんてんだろ」
そりゃ討伐されるわ
( 2018年10月09日 06:05 )
人間七七四年 | URL | -
いい加減上洛する詐欺めいた発言や行動してれば、秀吉だってブチ切れんだろ
( 2018年10月09日 10:14 )
人間七七四年 | URL | -
長宗我部、島津と完敗しても本国は無事でうまく戦えば徳川みたく丸ごと安堵
て流れの他の大名を見て甘く考えたんかもなー
( 2018年10月09日 11:00 )
人間七七四年 | URL | -
※8
北条からしたら上洛する理由なんか無いしなぁ
( 2018年10月09日 11:39 )
人間七七四年 | URL | -
北条になくても豊臣にはある
だから潰されたということだな
( 2018年10月09日 14:12 )
人間七七四年 | URL | -
なお沼田引き渡しの際に農民根こそぎ真田に持って行かれる模様
小田原の戦いは徳川軍が破竹の勢いで城落とさなければ変わったかも知れん
( 2018年10月09日 16:59 )
人間七七四年 | URL | -
名胡桃などの替地は真田側の真ん中に宛がってそこに行かせないとか
信じて上洛しろってのが無理な話
( 2018年10月09日 17:36 )
人間七七四年 | URL | -
すぐに上洛すれば安堵されたはずって認識の人多いみたいなんだけど
そんな旨い話あるかなあ
( 2018年10月09日 19:35 )
人間七七四年 | URL | -
家康は安堵されたからなあ。上杉も毛利も
抵抗した所は軒並み減らされたけど、
最もその後どっかに飛ばされる可能性はあるがね、その場合たいてい加増されるから悪くはないが
( 2018年10月09日 20:42 )
人間七七四年 | URL | -
※14
実際の豊臣政権見てれば、上洛したから所領安堵なんて思ってる人は殆ど居ないでしょ?
問題にしているのは、「上洛しなかった事」を理由に難癖付けられたり、
印象を悪くしちゃっている点でしょう。
秀吉自身が惣無事掲げてる以上、徹底的に下手に出られたら手出しが難しい。
( 2018年10月10日 00:13 )
人間七七四年 | URL | -
完全な安堵はなくとも、早めに臣従しておけば大身大名として秀吉の死まで生き残れた可能性は高いだろう。
結果論とは言え、九州の果てまで安定して十数万送り込む中央政権に挑戦するのは当時から見ても無謀でなかったかなあ。
実際誰も呼応しなかったし。
( 2018年10月10日 00:55 )
人間七七四年 | URL | -
軽く上洛と言うけど北条氏クラスの大名が面目を保つとなれば費用が凄いからな
氏規の時でも費用の捻出にあれこれ手間かけてる(輝元の初上洛も無茶苦茶費用かかってる)
北条は上洛自体は請けてるけど政治的な意図で引き延ばしてたというより
費用の捻出に手間取ってただけだと思う
( 2018年10月10日 07:01 )
人間七七四年 | URL | -
※17
安定してではないよ 実際はかなり危なかったからね
あとは北条がイナゴのように大量に湧いてくる上杉軍を毎回撃退し続けたこととか、秀吉の前任の信長がああいう倒れ方した事から「また上手くいくでしょ」みたいに考えちゃった人が結構いたんじゃないの
そういう経緯があって現状拡大してってる北条が「ここで切り上げて縮小路線に切り替えよう」とスパッと考えるのは相当難しいかと
( 2018年10月10日 11:45 )
人間七七四年 | URL | -
※19
あくまでも個人論ですが、さすがに本件は後北条家の情報収集とそれに基く判断の完全な失敗だと思います。
少なくても当時の関東は田舎ですし、中央の情勢は目まぐるしく変わりましたし、認識が追い付かなかったと
思っています。上洛して見たら装束で恥かいたなんて話しがある位ですし。
目の前の事を気に掛けていたら、世の中の回りの状況が以前と違う事になっていて、気付いた時には外堀が
埋まっていたと言う印象でしょう。
良くも悪くも後北条家は「関東の勇」であって、「天下人を狙える勇」ではなかったと言う限界ですね。
( 2018年10月10日 14:02 )
人間七七四年 | URL | -
※18
昔どこかで上洛費用集めに手間取ってる間に名胡桃城が内輪もめで寝返ってきてしまったって説見て笑った覚えが
( 2018年10月10日 17:38 )
人間七七四年 | URL | -
※16
上洛して臣従すれば徳川毛利上杉みたいに安堵され、さらに武功によっては加増もありうるぞ
徳川は倍増、上杉なんて三倍にもなってる、毛利は国替え抵抗したのであまり増えなかったが、それでも内分されてた小早川50万石はもらっているので、1,3倍には増えてる
上洛して臣従せず、おまけに公儀無視して領土拡大してたらそりゃ攻められるよ、北条に攻められているほうは臣従してるんだから
( 2018年10月10日 20:58 )
人間七七四年 | URL | -
※20
装束で恥をかいたと言うのは読み間違えてるぞ
氏規は正式な官位を持たないから、秀吉に対面した時も他の官位持ちのような
束帯を着用できなかったという話だ
( 2018年10月11日 23:22 )
人間七七四年 | URL | -
まぁ秀吉に従ってる勢力を攻めちゃまずいでしょうね
( 2018年10月12日 06:47 )
人間七七四年 | URL | -
※22
結果論だけ見て過程をふっ飛ばせばそうなるわな。でもその大名家達だって上洛するまで色々あったし、
戦々恐々だったのだし。その増えた云々だって結局は政治に左右された結果だけ。
後北条家の敵が秀吉利用しないでどうするのよ?
※23
それは実際はであって、逸話ではそんな慣例も知らないの?プゲラ扱い。
( 2018年10月12日 16:02 )
人間七七四年 | URL | -
つまり逸話では北条は世間知らずという態で
実際は秀吉が挑発しまくってたってことだな
( 2018年10月12日 19:21 )
人間七七四年 | URL | j7kPgX2Q
まあ結果論言うても当時既に上杉毛利徳川長曾我部島津と先例はあったんだがな
聚楽第行幸に誰も行ってない時点でヤバイのに
せめて氏規が上洛したとこでどっちでもいいから行っとけばな
( 2018年11月13日 17:09 [Edit] )
人間七七四年 | URL | -
やっぱ氏政が秀吉を軽侮してたんだろうか?
氏直は本人の態度と家康の手前もあって助命された、と。
( 2018年11月30日 05:59 )
人間七七四年 | URL | -
臣従したとこは毛利の小早川隆景、島津の伊集院忠棟、長宗我部の谷忠澄といい近臣がいち早く進言したのが鍵やったんやろか
当然反対する家中の人間を上手くまとめないといけないし…北条も板部岡江雪斎とかいたけどダメだったのかしら…?
( 2019年02月06日 18:12 )
人間七七四年 | URL | -
※29
北条でその可能性があったのは氏規だけだと思う。
ただその氏規も根本的に秀吉その人とのコネクションが細くて遠いんだよね。
隆景は官兵衛、忠棟は三成と幽斎がカウンターパートだったことを思うと、
氏規が持ってるコネはほぼ家康経由で秀吉の直臣との繋がりが薄い。
家中での存在感も隆景とは比べ物にならないし。
( 2019年02月06日 19:14 )
人間七七四年 | URL | -
取次は家康だったけど、その家康が関東狙ってるんじゃないかと疑心暗鬼だったみたいだしね
家康は関東なんて欲しくないから(棒読み)と答えて説得してるんだけどね
( 2019年02月06日 20:42 )
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