498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/05(水) 14:57:37.13 ID:8cGYkPYR
去るほどに、栄える者は必ず衰え、生まれる者は必ず滅するの理の通り、朝倉家にも滅亡の時が訪れたと見え、
近年(朝倉義景の時代)多くの一族や被官が、或いは病死し或いは討ち死にし、家運の危うさは言うまでもなかった。
先ず右兵衛尉景高の嫡子次男が、一年の内に二人ながら死去し、その後景高も死去して末子孫三郎一人残命した。
九郎左衛門景紀の嫡男四郎左衛門景ミツは、加賀へ出陣した折、大将であった景高と相論して自害し、
その舎弟中務大輔景恒も死去したが、父景紀も程なく卒去した。
堀江左衛門三郎景忠は、朝倉義景の勘気をこうむって能登国に立忍び、伊勢左衛門太郎景茂は、
過酒して不慮に酔死したため、国の防衛も薄く心もとない状況になり、人々は只薄氷を踏む心地であった。
その外、玄蕃助景連、同次郎左衛門景高、前波藤右衛門景定、小林備中守、窪出九郎右衛門、黒坂備中守といった、
千騎二千騎の軍勢を引廻すほとの者共も悉く死亡して、その後に義景は少数の、若輩の佞人たちだけに世を任したため、
功のある者には恩賞無く、罪の有る者は誅伐されず、彼らは奢りを極め欲を縦にし、己を強くし君を弱めて、終に
国の禍を招いたのだ。
(朝倉始末記)
老巧の者たちが多く死んだ事が朝倉の衰運を引き寄せた、と言う朝倉始末記の記事。
499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/05(水) 15:38:02.15 ID:GC/GK0DC
救世主の登場まであともう少し
去るほどに、栄える者は必ず衰え、生まれる者は必ず滅するの理の通り、朝倉家にも滅亡の時が訪れたと見え、
近年(朝倉義景の時代)多くの一族や被官が、或いは病死し或いは討ち死にし、家運の危うさは言うまでもなかった。
先ず右兵衛尉景高の嫡子次男が、一年の内に二人ながら死去し、その後景高も死去して末子孫三郎一人残命した。
九郎左衛門景紀の嫡男四郎左衛門景ミツは、加賀へ出陣した折、大将であった景高と相論して自害し、
その舎弟中務大輔景恒も死去したが、父景紀も程なく卒去した。
堀江左衛門三郎景忠は、朝倉義景の勘気をこうむって能登国に立忍び、伊勢左衛門太郎景茂は、
過酒して不慮に酔死したため、国の防衛も薄く心もとない状況になり、人々は只薄氷を踏む心地であった。
その外、玄蕃助景連、同次郎左衛門景高、前波藤右衛門景定、小林備中守、窪出九郎右衛門、黒坂備中守といった、
千騎二千騎の軍勢を引廻すほとの者共も悉く死亡して、その後に義景は少数の、若輩の佞人たちだけに世を任したため、
功のある者には恩賞無く、罪の有る者は誅伐されず、彼らは奢りを極め欲を縦にし、己を強くし君を弱めて、終に
国の禍を招いたのだ。
(朝倉始末記)
老巧の者たちが多く死んだ事が朝倉の衰運を引き寄せた、と言う朝倉始末記の記事。
499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/05(水) 15:38:02.15 ID:GC/GK0DC
救世主の登場まであともう少し
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コメント
人間七七四年 | URL | -
誰の事なんだ>救世主
( 2018年12月05日 18:22 )
人間七七四年 | URL | -
朝倉に信長に対して勝算があったのかよくわかんねえなあ
それとも主筋という意地だけで挑んだのか
( 2018年12月05日 20:27 )
人間七七四年 | URL | -
※1
林羅山と〜の方の逸話に対するレスなんじゃないかな?内容的に
( 2018年12月05日 20:59 )
人間七七四年 | URL | -
志賀の陣のときはかなり勝ちに近い引き分けだったからわが方有利の感覚はあったんじゃね
逆にあれだけの外交不利から盛り返した信長の力量と幸運(と困ったときの勅令講和の強さ)が凄い
( 2018年12月05日 21:22 )
人間七七四年 | URL | -
宗滴じいさんが復活するのか
( 2018年12月06日 10:21 )
人間七七四年 | URL | -
織田が志賀の陣で潰れてないのが不思議なくらいだしな、事実一門や子飼いが軒並み死んだしな
( 2018年12月06日 10:23 )
まとめ管理人 | URL | -
※3
なるほど、あちらに入れておきます!こっちはこっちでそのまま残しますw
( 2018年12月06日 17:30 )
人間七七四年 | URL | -
山崎吉家や河合吉統、鳥居景近らの側近集が佞臣というのはちょっちなあ…
どっちかと言えばこいつら以外の親族衆の方がよっぽど…
武田の跡部にも言えるけど、生き残った奴らがかなり好き勝手に死人に口なしやってるよね。
( 2018年12月06日 17:37 )
人間七七四年 | URL | -
※8
金ヶ崎合戦で敦賀郡司家(宗滴の家)が壊滅したのも宗滴を恨んでいた景鏡の意向でわざと援軍を遅らせたからって説があるくらいだしな…
マジだとしたらvs信長開戦の時点で本来の目的より対立親族の見殺しを優先する一族がのさばってるくらいの末期状態
( 2018年12月06日 18:47 )
人間七七四年 | URL | -
※9
「敦賀大野相争い、余力をもって信長と戦う」という敗戦必至なフレーズを思いついた
( 2018年12月06日 19:11 )
人間七七四年 | URL | -
※6
志賀の陣は鬼武蔵さんの父も兄も討死してましたよねえ。
近江国人衆でも討死した人居ますけど、その中に青地茂綱て人が居て、蒲生賢秀の弟で青地家に養子に行った人だそうで。
で青地家も子の元珍が年少で家督継ぐ鬼武蔵さんと同様の事になって、織田家臣と活躍するが、本能寺の後信孝に仕えるも賤ヶ岳で信孝切腹で浪人して従兄弟の氏郷に仕えたが秀行の時に辞めて最終的に前田利長に仕えて以後幕末まで青地家は加賀藩士となってますね。(青地家は本多政重の孫が養子に入ってますが)
その子孫にはかの室鳩巣の門人青地兼山、礼幹兄弟が居て、師とのやりとりが兼山麗沢秘策として残ってますね。(鳩巣が吉宗の政治顧問だった為本来は幕府機密情報として残っては拙い内容も有るけど残った為、色々吉宗の政治の内情が解る興味深いものらしい。確か新潮文庫からこの兼山麗沢秘策ネタにした本出ていたかと。)
( 2018年12月06日 19:37 )
人間七七四年 | URL | -
浅井朝倉勢だって当初の目的を果たすことできず、被害は小さくないのにね。
※11
森可隆が戦死を遂げたのは越前攻めの時だよ。森家にそれ以外の兄がいるなんて聞いたことないし。
( 2018年12月06日 21:17 )
※11 | URL | -
※12
そうだった。スマン。
しかし、森家も青地家も家は残った(青地家は加賀藩士だけど)けど、越前朝倉氏は確実な家は有ったかな?(自称は結構有るが)のレベルなのはねえ。今週の管理人さんの言葉がよく解ります。
( 2018年12月07日 12:35 )
人間七七四年 | URL | EybeWf1w
三河朝倉は自称だっけ?
( 2018年12月07日 20:06 [Edit] )
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