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薩た峠の戦い

2018年12月09日 19:09

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/08(土) 22:37:48.91 ID:wtlDa408
(薩た峠の戦い第二次合戦の時)

頃は正月末つかた、余寒激しく山々の雪は未だ消えやらず、浜風はいたく吹き立てた。軍勢が堪え凌ぎかねて
いるその様を見て、武田信玄は駿府から多くの酒を取り寄せて諸軍に飲ませれば、諸軍勢はこれを飲んで寒気
を忘れ、大いに喜び勇んだ。

その酔心で気力を得て、「いざや一夜討して敵の眠りを覚まさん!」と2千余人が申し合わせ、各々その用意
をして山上に登ってみると、北条勢は寒気に耐えかねて、陣営ごとに焼火で寒気を凌いで座眠りしている者も
いれば、麓に集まりうずくまって縮み伏している者もおり、いずれも油断の有様なれば、武田勢は「これこそ
天の与えなれ!」と喜び、どっと喚き叫んで陣屋陣屋を蹴破り、弓鉄砲その他武具を分捕り、軽く纏めて引き
返した。

北条勢はその声に驚いて「ああっ夜討の入りたるぞ! 太刀よ、物具よ!」と、ひしめく間に寄手は軽く引き
取れば、北条方の将卒どもは、「余りの寒さに油断して大盗人にあった!」と後悔すれども、その甲斐なし。

この後は相互に夜討の用心をして、昼は両陣より50騎か百騎ずつが出て迫り合うのみとなったが、ある日、
武田方より跡部大炊介勝資が、地黄に紺筋の旗1流をさっと差し上げて、その勢3百余人が撞鐘の馬印を押し
立て乗り出した。北条方よりも松田尾張守憲秀が、白地に山道を黒く染め付けている旗を、これも1流を浜風
に翻して、その勢8百余人が打って出た。

互いに掛け合わせて始めの頃は弓鉄砲で射合い撃ち合ったが、後には双方騎兵を入り交ぜて突き合い切り合う
と見えたところで、武田方は小勢のために掛け立てられて2町余り敗走した。

北条方の松田尾張守が士卒に命じて敗走する敵勢を食い止めんと進んで来れば、跡部大炊介は取って返さんと
すれども、備が乱れ立って士卒の足並みはしどろもどろになり返せず、逃げようとすれば松田勢が近くに追っ
掛けて来て、跡部はどうしようもなく見えたところに、武田方より馬場美濃守氏勝(信房)が2百余騎で掛け
向かい、ひしひしと折敷の姿勢を取り、槍衾を作って一面に備えた。松田はこれを見て「今やこれまでぞ!」
と軍士を招いて引き返した。

この時、馬場の属兵・鴟大弐という者は紀州根来の生まれで大剛の兵のため、信玄は常にこれを寵した。この
大弐はこの日衆に抜きんで先頭に進み出て、松田勢を食い止めんと働いたのだが、鉄砲で腰を撃たれて倒れた
のを見た松田勢20騎ほどが、その首を取らんと馳せ集まった。それをこれも馬場の属兵である金丸弥右衛門
(弥左衛門)が、これを見るなり馳せ寄り大身の槍を取り伸べて、近寄る敵7,8人を突き倒し、大弐を引き
立てて味方の陣へ帰ったのである。

大弐は甲斐へ帰国の後に様々に治療し、腰は少し引いたけれども勝頼の時代まで生き長らえて、長篠の戦いで
勇戦した。その時に飯寄惣兵衛と名乗って討死したのは、この大弐であったのだという。

かくて北条と武田は90余日対陣し、4月28日に信玄はついに軍を帰し大地山を越えて甲斐に入った。北条
父子は駿河に入り、ここかしこに隠れていた今川の侍どもを招き集め、その他に小田原勢1万8千人を駿河の
蒲原・三枚橋(原注:今沼津と言う)・興国時・善徳寺・深沢・新庄、また伊豆の戸倉・泉頭・山中・鷹巣・
湯浅などの城々に籠め置いて、小田原へと帰陣した。

――『改正三河後風土記』


550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/08(土) 22:45:15.64 ID:wtlDa408
甲斐勢の跡部・栗原(伊豆守か)は3百余騎で押し出すが、松田・富永(政家)の8百余騎に掛け立てられて
立つ足もなく敗北し、薩た山の下へ海際まで追い打ちにされた。剰え松田勢に食い止められ、取って返さんと
すれば備は乱れてしどろもどろとなり、引き退かんとすれば敵が押し掛けて追い詰めた。

跡部・栗原勢は一人も残らず討ち取られると見えたので、馬場美濃守は2百余騎で掛け向かうと、ひたひたと
折り敷いて一面に備えれば、松田勢が妨げられて挫けたところへ、内藤修理(昌豊)が横合に鉄砲を撃ち立て、
松田・富永も叶わず引き返した。

美濃守の同心・鴟大弐という者は大剛の兵で、深く働いて打ち合うも腿を鉄砲で撃ち抜かれて伏してしまった
ところを小田原勢が首を取らんと集まった。それをこれも美濃守の同心・金丸弥左衛門が走り寄って槍で突き
払い、大弐を引き立てて味方の陣に帰った。

しばらくあって敵味方は押し寄せ戦い、引き分かれてはまた寄せ合わせ、火が出るほど戦って両陣は相引きに
引き退いた。その後、信玄は如何に思われたのか、人数を出さず対陣して百騎2百騎の迫り合いのみで虚しく
春を過ごした。

甲斐は隣国ではあるが、大山を越えて通路は難儀なので数月の対陣で兵糧は尽き、4月28日に信玄は高野山
の麓、橘の小島を廻って終夜引き退いた。これによって、氏康父子も帰陣せられた。信玄がすでに今川を追い
落としたにも関わらず、氏康が(駿府を)手に入れたことは、犬の押さえし鶉を鷹に取られ、猟師の網にかか
りし兎を狼に食われたるが如し。

氏真の館を信玄はことごとく焼き払ったので(氏康父子は)久野弾正(宗政)・森川日向守・岡部次郎右衛門
(正綱)・河部大蔵らに御館の普請を言い付け、蒲原の城・大宮・善徳寺・高国寺・三枚橋・戸倉・志師浜・
泉頭に小田原勢を籠められた。

――『小田原北条記』



551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/09(日) 16:01:40.91 ID:mbIVt329
>>549-550
両方の記述が一致してると信憑性高くて面白い。専門家はこういう作業ずっとやってるんだろうな。
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    跡部勝資VS松田憲秀の組み合わせはちょっと面白い

  2. 人間七七四年 | URL | -

    ※1
    両方文吏的側面が後年の軍記物のせいで強調されるけど、実際は300騎以上の動員力を誇る武人の中核だからね。
    そもそも調停と書いて逆らえばぶっ潰すと読む戦国時代においてもめ事の調停を担当する文吏官は相当の実力がないと務まらないという。

  3. 人間七七四年 | URL | -

    ※2殿
    当主の意向を正確に理解して且つ、相手側にその意図を解り易く説明して納得してもらう。
    そんな芸当を無能やただ口の上手いだけの佞臣が出来る筈もなくなんだよね。
    当主と自身の間に信頼と実績がないと仕事なんて出来ない立場な筈なんだけど・・・
    世間は中々そうは見てくれない。

  4. 人間七七四年 | URL | -

    ※2
    文吏なんで軍事には関与しませんなんて武士のアイデンティティに関わる大問題よな
    武士に文官はいない、いるのは政治力のある武人と政治力のない武人だけだ

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