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平田宗次セブン

2018年12月28日 18:20

551 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/12/27(木) 15:24:03.69 ID:WAd4eUEx
平田宗次セブン

島津氏の家臣に薩摩平田氏という一族がいる。
嫡流筋の7代当主・平田光宗は家老になるほどの家柄に成長した。
そんな平田氏にスポットをあてたいと思う。

過去にサイトでは朝倉教景が5人いたと紹介されたが、ここ薩摩平田氏には同時期になんど7人も諱かぶりがいた。
まあ通称とか官職などで呼ばれてたから別にいいんだけどね。
だが、同時期に7人も同じなのは狂気の沙汰である。


それはともかくとして、選手を紹介していこう。死亡した順番で紹介いく。

(1コース)又十郎・・・1558年に曽於郡にて戦死。
(2コース)源太/新助・・・日向福島にて戦死。
(3コース)平次郎・・・朝鮮出兵で戦死。
(4コース)三五郎・・・大隅財部にて男色相手と共に出陣するが、相手が戦死したため敵中に突入し戦死。
(5コース)万兵衛・・・関ヶ原合戦で戦死。
(6コース)新次郎・・・日向野尻の狩りで伊集院忠真と馬を交換したが、忠真謀殺を狙う島津忠恒の配下による誤射されて死亡。
(7コース)左馬頭・・・9代当主・増宗が島津忠恒によって上意討ちされると、2年後に連座で処刑される。

結局7人全員まともな死に方してねえじゃねえか!
誰1人とも枕の上で死んでない。

↓系図はこちら↓
https://i.imgur.com/PrOIwht.jpg


鹿児島県の史料集などから抜粋


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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    戦死だったらまともな死に方もいいところじゃんねえ(麻痺)
    男色相手に殉じて命を捧げるなんて美談ですらある(混乱)

  2. 人間七七四年 | URL | -

    ググったらWikipediaでも七点セットで草生えるわ

  3. 人間七七四年 | URL | -

    ※2
    そうなんだよね。で見たら4コースの人は美童で亡くなった時悼んで新納さんが和歌詠んだまではまあ悪く無いけど、6、7コースの人て6の人は誤射で撃った人が責任とって切腹で、7の人は父親が6の人の父親の弟でこの時6の父親や兄弟と一緒に7の父親や兄弟も滅ぼされて平田宗家が絶える(庶流は存続するが)と云う悪久の胸糞悪い話なのはなんとも…

  4. 人間七七四年 | URL | -

    薩摩平田氏の粛清はあまりに徹底していて何が原因でそこまでの事をされたのか前から気になってる

  5. 人間七七四年 | URL | -

    タイトルから投稿した人は熱烈な阪神ファンと見た

  6. 人間七七四年 | URL | -

    ※4
    恐らくだけど、伊集院氏との関係と、家督相続問題での恨みでやったんじゃないかなあ?
    生来のこの性格だし、当主にするには不安だったと家老の立場ではそう判断できるんじゃないかなあ?
    ライバルも事実上毒殺扱いされているし。

  7. 人間七七四年 | URL | -

    ※4
    秀吉が豊臣政権下に於ける事実上の島津家当主を義弘にしたことで、
    それを承服しかねる島津家内部が義久を当主と崇め続けたことで内部的に
    確執が生じたのがそもそもの原因。

    更に徳川政権下では義弘が隠居したことで、島津家当主は忠恒となり、そのことで
    島津家内部は義久派・義弘派・忠恒派に分かれてたそう・・・当の本人たちの意志とは別に。

    義弘派と忠恒派は同じ対外的当主ということで然程の確執はなかった一方で、
    義久派とはそうはいかなかった。
    最大の理由は、島津家代々の当主が所有する「御重物」というものが忠恒に譲渡されず、
    義久の娘で、忠恒の正妻である亀寿に与えられていたこと。

    島津家は女系の権力も強かったそうで、それを示す証拠として、日新斎の娘である御隅を
    娶った島津庶流の樺山善久の肖像画は、嫁である御隅と座りの高さが同じに描かれている。
    亀寿としても、義久の娘としての誇りと気位の高さくらいは持っていたのだろう、忠恒に御重物を
    譲渡しようとはしなかった。

    豊臣政権では忠恒と亀寿による捻じれもまだ許容できただろう。
    でも徳川政権では、豊臣恩顧の武将が色々難癖をつけられては改易されており、また島津家も
    関ヶ原戦以降、徳川家に警戒されているのは明白だったわけで、内部の確執が発展し、
    万が一内乱にでも発展すれば改易は免れない。

    で、平田宗家当主の増宗は義久派の筆頭で、平田増宗の実弟は御隅付きの筆頭家老だった。
    つまり、この二人を粛清することにより義久派=御隅派の力を挫けるわけで、またそうすることで
    忠恒に権力が集中し、島津家の内部分裂を避けられ、改易の可能性の芽を摘むことが出来たと
    いうことになろうか。

    何より、人吉藩という権力集中の失敗の見本が御隣にあるのだから、忠恒としては尚更
    気を揉んだことだろうと思う。

  8. ※7 | URL | -

    >平田増宗の実弟は御隅付きの筆頭家老だった。つまり、この二人を粛清することにより義久派=御隅派の力を挫けるわけで

    申し訳ない、御隅の部分は亀寿の間違い。

  9. 人間七七四年 | URL | -

    薩摩は女系による相続を許容する双処居住型核家族が強い地域なので
    忠恒ではなく亀寿を当主と仰ぐのに違和感が少なかったのだろう

    ただしそれは公儀をはじめ日本全土で通用する価値観ではなかったので
    「薩摩の外」を知っている忠恒派にとっては「当主の婿でしかない」というのは極めて不都合
    忠恒が亀寿から正統性を奪い取るためにあらゆる手を使ったのは性格の不一致のみならず
    対外的にこの相続関係が理解されないであろうという危機感もあったはず

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