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本多政重、長男を旗本にする・いい話

2009年02月02日 00:16

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/01(日) 20:41:49 ID:eLVBLhEP
本多正信の三男本多政重
彼は倉橋長右衛門の養子となり家康、秀忠に仕えた。
慶長二年八月に岡部庄八というものと衝突、これを切って出奔し伊勢に逃れる。
正木左兵衛となを変え宇喜多秀家に仕えた…がこの後が不可思議なのである。

関ヶ原の後宇喜多家を浪人し福島正則、前田利長に仕え慶長九年には前田家の仲介のもと上杉家に仕える。
わずか七年間で四家を渡り歩くというのはあまり例がない。
一介の葉武者ならばまだしも前田家では三万石を食んだ大身である。
父正信に命じられてのスパイ活動だったという説も。

さて政重が上杉家に仕える際には二つの条件があったという。
一つは直江兼継の娘婿になること、もう一つは生まれた子は上杉景勝の嗣子とすることである。
関ヶ原で睨まれた上杉家の保身のための条件とも考えられるが結局男児は生まれることがなかった。

さらに下って慶長十六年政重はまたしても浪人する。
すると藤堂高虎が前田利長に召し抱えることを書で勧めた。
利長が応じたため古巣である前田家に再び使えることになる。
知行は三万石、三年後には五万石に加増されている。
利常の代となってからは家老として腕を振るった。

後年家光によって子の一人を五千石の旗本として差し出すように命じられた際
周囲の反対を押し切って長男を出仕させた。
政重曰く「長男は少々抜けておる故百万石の家老には向かぬ。だが将軍家は八百万石、多少の馬鹿を召し抱えても差し支えあるまい。」




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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    この逸話で言うところの長男は、実際は長男、次男が死去していたので三男です。
    三男の政朝は旗本、本多大隈守家の祖となり、四男の政長が加賀本多家を継ぎました。

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