FC2ブログ

天下は秀吉の掌握に帰すといえよう

2019年02月26日 17:16

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/26(火) 17:11:13.36 ID:nQUz9yBO
(『柴田退治記』の成立した1583年11月頃)

・賤ヶ岳の戦いの時、毛利輝元は一旦和談せしむといえども、心を許すべきにあらず。これにより、
宮部善浄坊(善祥坊継潤)を因幡に置いた。仙石権兵衛(秀久)は四国の押さえをなすため、淡路
へと返した。池田紀伊守(元助)は根来・雑賀の警戒をなしたものである。

・柴田勝家の討伐後、北陸の新属の国々は掟を改め、政道をもっぱらにした。その時、越後守護の
長尾喜平次景勝(上杉景勝)は秀吉に降をなして幕下に属したので人質を取り、5月17日に安土
へ至ったものである。

・このような時に東国においては徳川家康と北条氏政(続群書類従版には氏政の名は無し)、北国
においては長尾景勝、西国においては毛利輝元が、皆秀吉へ輻湊(方々から集まって来ること)す
る。天下は秀吉の掌握に帰すといえよう。

・備前美作守護の宇喜多直家は先年に播磨別所謀叛の時に西国に背き、秀吉に一味して危うきこと
度々に及ぶも、無二の覚悟で秀吉と入魂をなす。これにより、直家逝去の後に嫡男を召し出して婿
君と賞し、名字を分けて“羽柴八郎秀家”と号し、分国の他に所々に領地を賜ったものである。四
国においては、十河や安富などが秀吉の幕下なり。土佐国の長宗我部元親は懇望致すといえども、
秀吉の許容ならず、かの国を取り、さしあたって忠の侍に与えるとの由を定めた。

――『天正記(柴田退治記)』

柴田退治記より、天正11年当時の諸大名との関係



スポンサーサイト





コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    毛利の上洛は徳川よりも遅いんだけどね

  2. 人間七七四年 | URL | -

    ホントだw

  3. 人間七七四年 | URL | -

    この場合の輻輳は媚売りしに来てるくらいの意味でいいんじゃないかな
    上杉はハッキリ幕下と書いてるけど

  4. 人間七七四年 | URL | -

    四国勢というか讃岐勢、十河と安富が同列に扱われてる辺り旧細川三好系の凋落ぶりが顕著だなあ

  5. 人間七七四年 | URL | -

    ※4
    羽柴的には三好は笑岩―信吉ラインが宗家扱いなのであえてワンランク落としているんじゃないか?

コメントの投稿

(コメント編集・削除に必要)
(管理者にだけ表示を許可する)

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://iiwarui.blog90.fc2.com/tb.php/11793-7b12e851
この記事へのトラックバック