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洛中、洛外の境を、末代まであい定めるべし

2019年04月14日 17:38

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/14(日) 17:23:05.14 ID:zOGc5a2g
豊臣秀吉公に六拾扶桑(日本全国)悉く属し、(天下)一同の御代、四海静謐に治まっていたある時、
秀吉公は法橋紹巴、(前田)玄以法印を召して、密かに洛中、洛外の境を視察した所、東は高倉より
先は鴨川であり、はるかに見渡すと、平々と東山まで取り続き耕作の地となっており、西は大宮より先、
嵯峨、太秦まで見渡す限り田畠であった。南北の際も、何れとも境なく、ただ田舎の在郷のようであった。
秀吉公はつくづくと目を留められて、その後細川幽斎を召してお尋ねに成った

「花の都とは昔より言い伝えられていたが、京都の今の有様は、言語道断、この上もなく衰え廃れているように
見える。洛中、洛外と言っても、どこからどちらだという境もない。その上、内野の上、北野の右近馬場
という森は、興のある面白い場所である。右近が有るなら左近も有るべきことなのに、どうして無いのか。

北はいずれより、南はこれまでという洛中、洛外の境を、末代まであい定めるべし。そのためにも都の
旧起を聞きたい。」

これに幽斎「畏まって候」とあらましを説明した
「そもそも桓武天皇が、延暦三年十月二日、奈良京春日の里より長岡の京に遷りたまひて、
その後十年にして正月中旬に、大納言藤原小黒麿、紀古佐美、大僧都玄珍をつかわし給いて、
葛野郡宇多村を視察させられた所、『つくづく土地の様子を見るに、四神相応の地であります』と
申すにより、愛宕郡にお出でになり、同十三年十一月廿一日に、皇帝(原文ママ)は長岡より
今の京へ遷られました。

されば、四神相応とは朱玄竜虎が守護しているという事で、油小路を中に立てて条里を割られました。
東は京極まで、西は朱雀まで、北は賀茂口、南は九条まで、ただし北は一条から九条までを九重の都と
号します。油小路より東を左近、西を右近と申します。右京は長安、左京は洛陽と名付けられました。
であれば、禁殿(皇居)は代々に場所は少しずつ変わりましたが、先に定め置かれた境目は、些かも違う
事は無かったと見えます。この京へ諸国より一切の貴賤集まり、事を調え、又は帝を守護しました。

そうでありましたが、(足利)尊氏卿の御末、常徳院(足利義尚)、法住院(足利義澄)の時代より
この京はいつとなく衰え始めました。その理由は、山名奥州(氏清)の謀反(明徳の乱)以降、
ややもすれば都が合戦に巻き込まれ修羅の巷と成るようになり、一切の商人たちの、都鄙の往来が
妨げられ、自ずから零落したのだと言われています。都が衰え、政道も廃れたため、田舎はなお一層
恣に我意をふるまって、近代になり国土が穏やかでなくなったのだと言われています。」

この話を秀吉公はつくづくお聞きになり「なるほどそういう事であったのか」と、事の始終をよくよく
お考えになり、「であれば、先ず洛中、洛外の境を定めるべき」と仰せ出され、諸大名に命じて、
東西に土手を築かせ、それから、当時洛中に、民家とともに混在していた諸寺々が、所々に満ちて
立ち並んでいたため、徳善院(前田玄以)に命じて、諸寺共は京極から一町ばかり東へ移転させ、
北は賀茂口より南は六条まで、道の片側に並べて敷地を与えた。

さて賀茂川、堀川は所々に橋を掛けられ、往来の旅人のわずらいも無くなった。
その後禁裏の改修を行い、王法の政が廃れていたのを起こし、また洛中の地子米、公方米などを
悉く御赦免された。
そして秀吉公自身は伏見、大坂に、函谷関よりも固く城塞を拵えられ、諸国の大名、小名を詰めさせ、
都を守護された。

「『万民豊穣の下に住み、七徳の化を得る』とは、今この御代の事である」と、身分卑しい
賤の女や樵のような者たちまで、起きて寝るまで拝み奉らない者はなかった。

(室町殿物語)



801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/16(火) 16:05:59.24 ID:oj79od0Z
ここで、御土居が出来たのか
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    街や道路の管理ってほんとに大変だったみたいだな
    京都の朱雀大路はもともと幅70mくらいあったけど中世には放牧地や農地になっちゃってるスペースが少なくなかったとか
    南北朝~室町に何度かあった京都の戦も広い道の部分では市街戦というよりちょっとした原っぱでの戦いだったのかもしれない

  2. 人間七七四年 | URL | -

    だからまず燃やす

  3. 人間七七四年 | URL | -

    いきなり聞かれてスラスラ答えんのさすが幽斎さんと感心したけど、ちょっとキモいなとも思うw

  4. 人間七七四年 | URL | -

    歩いている一本の道にも歴史があると思えば、そこに道を引いて整えてくれた先人には、なんだか頭が上がらなくなるよ。

  5. 人間七七四年 | URL | -

    そうか賀茂川に橋なかったんかこのときまで

  6. 人間七七四年 | URL | -

    ※3
    幽斎さんでもイキナリ聞かれたら間違うとるときもあるんやで

    >されば、四神相応とは朱玄竜虎が守護しているという事で、
    >油小路を中に立てて条里を割られました。
    >東は京極まで、西は朱雀まで、北は賀茂口、南は九条まで、

    朱雀は南の守護神と自分でいうた矢先に「西は朱雀」、
    朱雀大路は平安京の中心やろ(当時右京が寂れ切ってたこともあるが

  7. 人間七七四年 | URL | EybeWf1w

    西は朱雀門まで道を敷いたとかそういうことじゃないのかな

  8. 人間七七四年 | URL | -

    うーん、これは太閤殿下!w

  9. 人間七七四年 | URL | -

    東京に今も残る上野広小路も幕府が火除の為に土地買収して苦労して道を広くしたのに
    暫くすれば辻売りが占領し見世物小屋が出来て…と火除地もクソもなくなったらしい
    しかも元々の経緯を説明し退けてもらおうとすると既得権を主張し退けないものが多かった
    将軍の日光参拝とか無駄の極みと当時の人にも批判されているがこういうのを強制的に撤去する口実になったらしい

  10. 人間七七四年 | URL | -

    仮にも細川を名乗る男が
    一連の説明の最後に足利将軍家をdisるとは、やりおるのう。

  11. 人間七七四年 | URL | -

    >西は朱雀門まで道を敷いたとかそういうことじゃないのかな


    いやそれじゃ「四神相応の地」として比定して都にした意味ないやろうが
    現代のコンパクトシティみたいに考えてくんなまし
    川と池と山となんだっけ、に囲まれているから意味があるんや
    縄張り自体に意味があるんやで

  12. 7 | URL | EybeWf1w

    ※11
    朱雀門って油小路の西側でしょ
    幽斎は油小路を中心にして説明してるってことじゃないのかな

  13. 人間七七四年 | URL | -

    平安京ってのは、ビシッと区分けしたのはいいが
    日本の規模や人口に対してあまりにも不相応に広すぎてスッカスカ
    どんどん東に偏っていって、中世にはほとんど左京のみが洛中ってことになった

    この逸話にしたって、幽斎が間違えているというより
    この話を書いた当時の人の脳内では京は「え、朱雀が西限でしょ」ってことになってる

  14. 人間七七四年 | URL | -

    ↑ええ…じゃあ右京職て閑職だったのかな

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