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岐阜をもって降参し、これ故に敗軍した

2019年04月24日 16:46

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/24(水) 00:18:57.62 ID:2NRXAsO+
景勝追討の時に相従う大名は7人、小名は46人、総じて53頭(原注:上方御譜代とも)であるという。
江戸を1日程に出て小山に至ると上方より注進あり。「石田謀反して日本一味す」と。

東照宮(徳川家康)及び諸大将は大いに驚いて、何も言えなかった。即時に江戸へ帰り、評定が行われた。
上方御譜代衆を各々一人ずつ召し出して方策を問うと、皆答えることができなかった。

上方衆の中で只一人、福島左衛門大夫(正則)が進んで曰く「太閤の遺言の如く、秀頼を立て給うならば
私が先手を致そう」と言う。諸将はこの時に皆同意する。左馬(加藤嘉明)も言うことができなかったが、
福島が言い出した後に、「我が心もこの如し」と言った。譜代の衆も一人も言い出す者はいなかったが、
ただ井伊兵部(直政)が進んで曰く、「私が先手を致そう」と言った。

評定の後に諸将が皆言うには、「妻子が人質となっている。この事があるので一旦偽って『降る』と言お
う」とのことだった。東照宮はこれを許され、諸将は打ち立って上方へ上った。しかしながら、東照宮の
後陣は至らず、7月に事が起こって9月にようやく到着した。

美濃青野ヶ原(関ヶ原)で合戦があったが、初めは治部方に利あり。後に筑前中納言殿(織田秀信)が岐
阜をもって降参し、これ故に敗軍した。

――『老人雑話』

関ヶ原一乱の勝敗は岐阜陥落で決まったとのこと



822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/24(水) 00:41:26.90 ID:y+S9JmHK
これいい話っていうか間違った話だろ

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/24(水) 08:35:47.43 ID:bs3dFm3P
>>821
秀秋で決まったのは後世の影響で岐阜城陥落の時点で勝敗決まってたそうだが、
この時代にもそういう見方はあったんだな、ていうかまだ後世の創作の影響がなかったからか

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/24(水) 15:35:49.04 ID:8I/LPCNJ
>>821
筑前中納言は秀信じゃないでしょ

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/24(水) 16:38:02.82 ID:1ua9YfKL
参謀三法師
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | tKQf3S82

    岐阜陥落がなかったら、関ヶ原で一大決戦とならずに
    各地で散発的な戦いが繰り広げられてたのかな?

  2. 人間七七四年 | URL | -

    そりゃ毛利も岐阜城落ちてから秘密裡に領土半減を受け入れ降伏してるし、戦略破綻もしてるのに勝ち目なんてまったくないでしょ

  3. 人間七七四年 | URL | -

    西軍側としても予想以上に前線が崩壊するのが早かったと言う認識だったのかな?
    たまに見かける意見としても、関ヶ原に着陣するなら、垂井城にも兵力を割いて
    牽制or楔を打ち込むべきだったのでは?と言うのもあるしね。

    個人的には岐阜をそれだけ重要視するなら、もっと周辺勢力を結集させられなかったのかな、
    と思う。

  4. 人間七七四年 | URL | -

    ※2
    それ時系列が無茶苦茶だし結果から過程を歪めちゃってるよ
    輝元が降ったのは関ヶ原後の話だし黒田とのコンタクトが途切れてた
    広家らが和睦に奔走したのは徳川勢が岐阜についてからの話だしね

    岐阜を落とされたあげく大垣に押し込められたのは痛手だったけど
    伊勢や北陸から軍勢を集めて反撃を狙ってたのは間違いない

    軍勢を集め終え東軍先鋒に対して数的優勢を確保したまではよかったが
    直後に大軍を引き連れた家康が着陣したのが致命的だった

  5. 人間七七四年 | URL | -

    自分が思うに「上杉征伐」の時点で前以て軍が編成されていたから、東軍の各将が時間を余りかけずにとって返して対応出来たのも大きいように思った。
    標的のすげ替えをするだけで遠征軍としての機能を崩す事なく岐阜城攻めに移れたのはアドバンテージになったんじゃないかなぁ。

  6. 人間七七四年 | URL | -

    *4 近衛前久の手紙によると
    表向きは本領安堵だが実は岐阜城落ちてから毛利は秘密裡に領土半減を条件で降伏してる
    そのあたりから輝元は西軍を見切りをつけて生贄にしてる

  7. 人間七七四年 | URL | -

    ※6
    それ和睦した時期を読み間違えてるぞ
    書状をよく見ることをお勧めする

  8. 人間七七四年 | URL | -

    *7 ただ吉川や福原などの毛利重臣が関ヶ原前に降伏してるから密約はあったのは間違いなんだが

  9. 人間七七四年 | URL | -

    ※8
    史料をまともに読む限りそれはないよ
    広家達が和睦へ動き始めたのは家康の到着を知ってからだからね

    実際輝元の指示で毛利元康が大津に出陣したのが9月6日で14日に陥落させて城を受け取る手配までしてるよ
    ちゃんと輝元と家康に約定が出来てるならこんな事態は絶対に起きない

    また広家の認識も自分の家臣に対して12日付書状で「去七日南宮山と申ニ陣執候、敵ハ樽井赤坂ニ有之事候」と書き送ってるので、少なくともこの時点までは西軍という認識で間違いない

  10. 人間七七四年 | URL | -

    確か各毛利隊は大津城攻め・安濃津城攻め辺りではかなり本気で戦ってるよね?
    黒田長政とかと通じてたけど、広家が通じた後でも安濃津で奮闘しているから
    焦ったとかって話し無かったっけ?

    積極性から消極的になったのが、確かに関ヶ原に着陣した前後だった筈
    これがこの逸話の岐阜城落城=美濃制圧されたからと思えば合点は行くんだけど?
    この辺りが機を見るに機敏な戦国武将くさい動きだよね。

  11. 人間七七四年 | URL | -

    ※10
    8月23日 岐阜城開城
    8月25日 安濃津城開城
    9月15日 大津城開城
    9月15日 関ヶ原の戦い

  12. 人間七七四年 | URL | -

    ※11殿
    おっふ。これは失礼。時系列がごっちゃになってしまった
    もうちょっと整理してから書けばよかった

    ただ西軍に居た毛利家の中でも、やっぱり一際広家の動きは強かさは感じるのよ
    最初通じて見たものの、西軍やるやん?もうちょっと様子見ておこう。
    家康来るの早えぇ、やっぱり向こうと通じておこうってイメージ。

  13. 人間七七四年 | URL | -

    後知恵で色々と言えるけども、あの状況下では双方に繋ぎをつけておくのは当然の対応だったでしょうね

  14. 人間七七四年 | URL | -

    広家って陰徳太平記や関ヶ原の和睦のせいで独断専行のイメージで取られるけど
    実際は輝元に忠実なんだよね

    最初は輝元の意思が確認できない状態で安国寺が奔走してたので危機感を抱いた広家や宍戸元続、益田元祥、熊谷元直の四人で相談して輝元に塁が及ばないよう東軍に繋ぎを取ってみた。でも輝元の意思がハッキリしてからは常に西軍として戦い続けてる(この間に出した全ての書状で家康に敬称さえつけてない)
    最後は赤坂に家康が着陣した時点で絶対に勝てないと判断して福原広俊と慌てて和睦に奔走したってのが実情に近いかと

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