946 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/30(火) 02:50:22.89 ID:7AS7T0U+
1574年5月、武田勝頼は軍勢を率い、高天神城を攻撃した。
城主・小笠原与八郎(小笠原氏助)以下籠城衆はひと月以上粘り援軍を待ったが、徳川家康は単独で武田に相対する力がなく、織田信長の援軍がやっと吉田城についた辺りで開城してしまった。
落城後、城主の小笠原与八郎が武田氏に一味し、家老衆らもこれに従っているとの噂が立っていた。
しかし彼らは家康に人質を出していることもあり、粗略にするような意図は全くありません、と浜松まで参上して申しあげた。しかし数日が経ち陰謀(与八郎たちの寝返りか)の内容が伝わると成敗されてしまった。
月日は流れ1582年3月、武田氏が滅亡すると小笠原与八郎は北条氏を頼って小田原に逃れ、隠居の身となっていた。しかしこれは家康の知るところとなり、家康より信長へ与八郎を引き渡すように要請してほしいとの要望があった。
早速信長より北条氏へ命令が下り、与八郎は処刑された。その首は小田原より浜松へと直接届けられたという。
『当代記』
1574年5月、武田勝頼は軍勢を率い、高天神城を攻撃した。
城主・小笠原与八郎(小笠原氏助)以下籠城衆はひと月以上粘り援軍を待ったが、徳川家康は単独で武田に相対する力がなく、織田信長の援軍がやっと吉田城についた辺りで開城してしまった。
落城後、城主の小笠原与八郎が武田氏に一味し、家老衆らもこれに従っているとの噂が立っていた。
しかし彼らは家康に人質を出していることもあり、粗略にするような意図は全くありません、と浜松まで参上して申しあげた。しかし数日が経ち陰謀(与八郎たちの寝返りか)の内容が伝わると成敗されてしまった。
月日は流れ1582年3月、武田氏が滅亡すると小笠原与八郎は北条氏を頼って小田原に逃れ、隠居の身となっていた。しかしこれは家康の知るところとなり、家康より信長へ与八郎を引き渡すように要請してほしいとの要望があった。
早速信長より北条氏へ命令が下り、与八郎は処刑された。その首は小田原より浜松へと直接届けられたという。
『当代記』
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コメント
人間七七四年 | URL | -
いつも思うんだがこれ小笠原は悪いのかな
国人領主として普通の行為だし、そもそも家康が単独でも救援に向かわなかったのが悪いのに
三方ヶ原の戦いの時は守りきっていて義理は果たしているのになぁ
( 2019年04月30日 17:01 )
人間七七四年 | URL | -
※1
わかる
むしろよく頑張った部類なのに厳しすぎる
( 2019年04月30日 18:36 )
人間七七四年 | URL | -
後詰を送らない場合は降伏しても仕方ないとされてるんだけどね
( 2019年04月30日 18:40 )
人間七七四年 | URL | -
信長公記とかの織田徳川側の記録では、
とにかく小笠原が悪い、になってる。
挙げ句に長忠と氏助の別人説で書いたりして。
実際は小笠原信興しかいないし、
勝頼はいい人だし、
第一次で世間の笑いものになったから、
第二次で逆に武田をわらいものにしたの、
ノブなんだよなあ。
当代記のこれも、クソミソマンが口封じしただけ。
( 2019年04月30日 21:21 )
人間七七四年 | URL | -
※4
ハッキリ言って頭おかしいでしょ
当代記の成立時期には家康はとっくに死んでるぞ
( 2019年05月01日 10:04 )
人間七七四年 | URL | -
こりゃ酷い。実際は織田・徳川両軍共が実質見捨てた形なのに、「開城したから、お前のせい」ってあんまりだ!
( 2019年05月01日 16:03 )
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