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平島公方系図

2019年05月26日 15:15

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/25(土) 19:34:35.29 ID:hxMmZEG8
足利義冬より之系図

義冬(足利義維

尊氏公十代の京都の公方・義稙公の長男(11代義澄の子。義稙は養父)。平島の元祖なり。永正
6年(1509)、京都で生まれる。母は細川讃岐守成元(成之)の娘。天文3年(1534)、
都から阿波国へ下向して那東郡平島庄に居住す。天正元年(1573)10月8日、平島で卒去。
同所西光寺に葬る。年65歳。法名・中山。

義冬が都から阿波国へ下向した趣きは将軍・義稙公の御台を清雲院と申し、阿波国の前細川讃岐守
成元の息女で義冬の母なり。

ところがこの清雲院殿は、ふと狂乱のようになられることにより、義稙公と不和になり給う。それ
故に子息の義冬を少しも寵愛なさらず、あまつさえ公家から御台を迎えなさり、清雲院殿も義冬も
嘆かわしい有様でおられた。

それにより新御台は義冬のことを様々讒言しなさる故、父子の間はいよいよ不和になり給うにつき、
義稙は世を(家督を)義高か義晴に御譲りなさるとの御内存であった。これは皆、新御台に近き一
門である故なり。

これによって清雲院殿と義冬はともに天文3年に四国へと志して下りなさったが、まず淡路志筑の
浦にしばらく居住しなさったところを細川讃岐守から迎船を遣わし、義冬を阿波へ招き受けて平島
に居住させたのである。

義親(14代義栄)

義冬の長男なり。天文7年(1538)、阿波国平島で生まれる。母は周防国の大内介(大内義興)
の娘なり。永禄9年(1566)10月20日、阿波国撫養で卒去。同平島に葬る。年29歳。法
名・国山。内室は結城氏。

義助

義冬の次男なり。天文10年(1541)、平島で生まれる。母は右に同じ。義親が早世故、義助
を惣領に立て義冬の家を継ぐ。文禄元年(1592)7月2日、平島で卒去。同所に葬る。年52
歳。法名・宝山。

義任

義冬の三男なり。天文12年(1543)、平島で生まれる。母は右に同じ。文禄年中に卒去。萩
原光勝院明岳和尚の父なり。

義種

義助の息男。天正2年(1574)9月2日、平島で生まれる。母は周防国の大内介の一族、柳沢
主膳正の娘なり。

義次

義種の息男。平島又八郎と号す。慶長元年(1596)9月23日に平島で生まれる。母は水無瀬
中納言の娘なり。

義景

義次の嫡子なり。元和2年(1616)、平島で生まれる。平島又次郎と号す。

――『阿州将裔記』



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