義冬(足利義維)に付下侍之覚。
富永豊後守據宗。 和州高市住人。(兵部少輔父也。)
結城但馬守重正。 駿州志多住人。
小寺新右衛門。 阿州松原住人。
荒川民部少輔珍国。 三州八名住人。(弥三郎父也。)
森小平太時常。 越前長坂住人。
村井権内。 関東者。
天代十郎左衛門。 武州者。
浅田将監延房。 摂州浅田住人。
乾鵜之助定直。(後号太郎右衛門。) 河州谷江住人。
西山源八。 讃州志渡住人。
今の志渡の玄雪という者はこの源八の孫である。
堀喜左衛門景盛。 江州之住人。
真淵伊豆守忠元。 但州出石住人。
親は出石刑部という者である。
安井源右衛門。 中国者。
三江兵庫。 播州野口住人。
湯浅次太夫兼綱。(小次郎父也。) 阿州長山住人。
侍分以上15人。
都合360人が付き下ったということである。
以上の侍どもは義冬に仕え忠義は浅からぬものであったが、牢人した事故、扶持すること叶わず、
三江・富永・結城・乾・荒川・湯浅、以上の6人が残り、その他は暇を遣わしたのである。
一、義賢(三好実休)は持隆(細川持隆)を討ち取って以後、三好民部入道を使いにして義冬へ申す
には、「徳雲院殿(持隆)は御身を失わせ給うとしても、義冬の御事は別儀もございませんので、
御領地はまったく相違ありません。只今までのように当地におられますよう」との由を申し越す。
「徳雲院殿なき以上は、どこへでも立ち退く」との由を義冬は仰せなさるも、民部入道が達て制
し申すことにより、それならば重ねて御返事なさると宣った。
持隆の失せた後に、清雲院殿(養父・足利義稙の正室。本書では義維の生母)は勝瑞に居合わせ
なさる。「もしかすると、義冬はいずこへも立ち退きなさるかもしれない」と、義賢は清雲院殿
を勝瑞に2,3年も留め置いて平島へ戻し申さぬ故、義冬はどうしようもなく留まりなさった。
義冬を義賢が介抱したのは、その時の将軍義輝公はいかがなされたのか義冬を親切に思し召した
ことにより、義賢も少しは敬ったのだということである。
そんなところに天文23年(1554)3月、清雲院殿は病死なさる。一周忌の後、御下りなさ
る旨を義冬が仰せられると、義賢ももっともと思い、大船3艘を調えて弘治元年(1555)4
月10日に周防へ下りなさった。
供した侍6人の内、乾定直は上方の様子を知るために河内へ戻しなさる。湯浅は阿波の者なので
義賢に預け置き、残る4人は妻子までも供をした。大内介(大内氏)は殊の外もてなし、小原と
いう所に居所を構えて義冬を居住させ置いて、大切に致したので永禄6年(1563)の秋まで
周防に居住した。
――『阿州将裔記』
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