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奥州会津へ行って南部下野は

2019年06月28日 18:02

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/28(金) 01:15:39.49 ID:Or38vN5M
信玄公は書立をもって仰せ下され、その御書の趣は「南部下野(宗秀)が山本勘介という大剛の兵を
悪口したのは無穿鑿である」とのことである。(>>205

一、山本勘介のような小身の者の城取・陣取はまことらしからぬとの事は、物を知らぬ申されよう
  である。唐国周の文王が崇敬した太公望も大身ではあるまじき事。

一、兵法使いが手傷を負っているというのは、一入武士道無案内である。兵法とは手傷を負わぬと
  いうことではあるまい。手傷を負って相手を仕ほすのが本当の兵法である。ことさら其の方の
  被官・石井藤三郎が白刃のところへ、棒で向かって組倒したのならば、たとえ勘介が死んでも
  屍の上まで誉れであろうに、それを嫉むのは無穿鑿である事。

一、其の方南部の手柄は、家中の者である笠井と春日が両人で仕ったのを、自分の手柄のように申
  されたと聞き及んでいる事。

「この3ヶ条をもって成敗仕るべきであるが、それでは山本勘介もきっと迷惑に思うだろう。ここを
勘介に免じて命を助けるので、遠き国へ参れ」との仰せで改易致され、奥州会津へ行って南部下野は
飢え死になされたのである。

(南部宗秀の)70騎・足軽・旗本・その他は方々へ分かつ。春日左衛門・笠井備後は前述の南部両
おとな(老臣。3ヶ条中の春日・笠井)の子である。以上。

――『甲陽軍鑑(品第四十上 石水寺物語)』







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