329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/12(火) 12:40:00.14 ID:F9dW7hQx
その頃、公方である足利義稙公は、近江の六角殿を頼まれていた。
江州の両佐々木と申すが、六角が惣領であり、近江国の国人たちは六角氏の下知に従った。
京極は庶子なのだが、その祖である(佐々木)道誉判官の、足利尊氏公への忠功が莫大であったため、
公方よりこれを賞して現在は四職の一つとなっている。
応仁の乱より京極は細川勝元に一味し、六角は山名と一味して、互いに敵と成った。
応仁の乱は結果として山名方の負けとなったが、六角は独り京都に順じずこれを討つための
将軍の御動座も度々であった。
しかしながら公方からも、また細川高国からも(永正の錯乱以後)頻りに六角高頼を御頼みあり、
六角殿は義稙方に参られたのである。
この時既に六角高頼は老齢であり、長男の亀樹丸(亀王丸)に家を譲った。彼は後に氏綱と名乗ったが、
彼は片足が短く立居が不自由であり、現在のような大事の時に彼を立て続けるのは難しいとして、
次男に吉侍者という、相国寺に入り禅門の修行をしている者があったが、彼には武勇の器量が有ると、
六角家の重臣である多賀豊後守、蒲生下野守、田中史朗兵衛尉らが相談して公方へ申し上げ、この度
還俗して高頼の名代として公方の前に奉り、諱を定頼と号した。
公方義稙はこれを大いに喜び、彼を任官させ佐々木弾正少弼とした。この六角定頼は木刀を
腰に指して公方の御前に参った。公方が「それはどうしたのだ?」と尋ねられると、定頼は
「私は元々出家ですから、刀を持っていないのです。」と申し上げた。
公方は笑って、彼に国行の刀を与えた。
(足利季世記)
永正の錯乱のあたりの近江六角氏について。六角氏綱が片足が短かった云々は現在では
否定的な見解が多く、どうも実際には戦傷などでかなり健康を損ない、結果的に弟に家督を譲った、
という事のようです。
その頃、公方である足利義稙公は、近江の六角殿を頼まれていた。
江州の両佐々木と申すが、六角が惣領であり、近江国の国人たちは六角氏の下知に従った。
京極は庶子なのだが、その祖である(佐々木)道誉判官の、足利尊氏公への忠功が莫大であったため、
公方よりこれを賞して現在は四職の一つとなっている。
応仁の乱より京極は細川勝元に一味し、六角は山名と一味して、互いに敵と成った。
応仁の乱は結果として山名方の負けとなったが、六角は独り京都に順じずこれを討つための
将軍の御動座も度々であった。
しかしながら公方からも、また細川高国からも(永正の錯乱以後)頻りに六角高頼を御頼みあり、
六角殿は義稙方に参られたのである。
この時既に六角高頼は老齢であり、長男の亀樹丸(亀王丸)に家を譲った。彼は後に氏綱と名乗ったが、
彼は片足が短く立居が不自由であり、現在のような大事の時に彼を立て続けるのは難しいとして、
次男に吉侍者という、相国寺に入り禅門の修行をしている者があったが、彼には武勇の器量が有ると、
六角家の重臣である多賀豊後守、蒲生下野守、田中史朗兵衛尉らが相談して公方へ申し上げ、この度
還俗して高頼の名代として公方の前に奉り、諱を定頼と号した。
公方義稙はこれを大いに喜び、彼を任官させ佐々木弾正少弼とした。この六角定頼は木刀を
腰に指して公方の御前に参った。公方が「それはどうしたのだ?」と尋ねられると、定頼は
「私は元々出家ですから、刀を持っていないのです。」と申し上げた。
公方は笑って、彼に国行の刀を与えた。
(足利季世記)
永正の錯乱のあたりの近江六角氏について。六角氏綱が片足が短かった云々は現在では
否定的な見解が多く、どうも実際には戦傷などでかなり健康を損ない、結果的に弟に家督を譲った、
という事のようです。
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コメント
人間七七四年 | URL | -
六角家って信長の時代辺りで戦と内政でガタガタだったせいで、ダメダメな家のイメージあるけど、
やっぱり影響力って凄まじい物があったんでしょうね。
( 2019年11月13日 02:56 )
人間七七四年 | URL | -
六角家は分国法を定めたり楽市楽座を先取りしたり、先進的な政が行われていた辺りは評価されていいはずなのに義賢の代から扱いきれなくなった感がある。
( 2019年11月13日 17:39 )
人間七七四年 | URL | -
親父より格の落ちる義賢すら全盛期の三好長慶を阻んだ最強の敵だったりするしな
軍事的には松永久秀がけちょんけちょんにされるくらい強い
( 2019年11月13日 19:34 )
人間七七四年 | URL | -
将軍に何度討伐されても何度でも復活する。
サバイバル術ももちろん高かったんだろうが、必要だったから生き残ったと考える方が自然よね。
南近江に所領を持つ奉公衆や寺社にとっては土地を押領する憎い相手であると同時に、
その所領から租税を運ぶルートを確保してくれる重要な権力でもあったわけよ。
この権力がなくなると違う荘園通過するたびにちょっとずつ銭を巻き上げられる。
( 2019年11月13日 20:20 )
人間七七四年 | URL | -
※4
特に山門寺門を抑えてるのはでかいよなあ。
( 2019年11月13日 20:41 )
人間七七四年 | URL | -
※3
実休を討ち取ったり三好軍に最大の動員させた畠山高政も忘れないであげてください…
それにしてもこのあたりの戦いって教興寺で10万とかかなり規模デカいのに同時期の桶狭間やら川中島に比べて信じられないくらい影薄いよね
( 2019年11月13日 20:53 )
人間七七四年 | URL | -
佐々木哲「おっ出番か?」
( 2019年11月13日 22:16 )
人間七七四年 | URL | -
間違いなく畿内の古豪なんだけどなんでか存在感ないんだよな六角家
( 2019年11月14日 21:58 )
人間七七四年 | URL | -
※8
戦国時代として馴染み有る時期は信長が出て来る辺りでそれより前だと新九郎さんとか除くと知名度無いからねえ。
で信長が出て来た時は呆気ない位所領失って、その後は大名として復活する事も無かったから存在感薄いのも止むを得ないかと。
庶流の京極家は大名として幕藩体制下に存続出来きたし、その家臣の浅井は家、大名としては消えたけど、その血筋は中央権力に大いに影響与えているからなあ。
武田や北条は旧臣が徳川家に召し抱えられて影響力有ったけど、六角氏の場合、蒲生氏が力有ったけど家続かなかったからなあ。
( 2019年11月15日 13:01 )
人間七七四年 | URL | -
※7※9
江源武鑑が誕生したのも反論する権威がいないからなんやろなあ
( 2019年11月15日 19:28 )
人間七七四年 | URL | -
ノブヤボ烈風伝の信長元服シナリオだとだいたい六角が東大寺から蘭奢待を持ち出すイベントが入るあたり当時の強さが伺いしれる
( 2019年11月17日 00:34 )
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