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六角高頼、目出度き次第の最期

2019年11月15日 19:26

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/15(金) 10:46:17.90 ID:MBAxU0HP
永正十七年五月九日、公方足利義稙は近江国観音寺城より御入洛があった。この時
佐々木六角大膳大夫高頼は隠居していたのだが、どのように思ったのか、今回は御供することを
申し出て共に上洛し、その年の八月に帰国、同月二十一日に観音寺城にて逝去した。

去る永正十五年七月九日、嫡男であった氏綱が早世して以来、高頼は深く嘆いていたのだが、
氏綱に家督を相続すべき男子が無かったため、次男の霜台(弾正の唐名・定頼)の度々の忠功により、
公方および管領(細川高国)が近年近江へ落ち来て彼の威勢を頼み、これに高頼は誠に時の面目、
当家再興の運開けたりと喜び、それまでの憂いも忘れてとかくの馳走があった。そして今度は
老後の思い出の上洛であるとして、公方に最後の御暇を申し上げて帰国し、その後一病も無く
寿命を終えられたのである。目出度き次第であり、法名は龍光院宗椿と申した。

彼の死を聞いた公方義稙、管領細川高国も深く嘆かれ、百首の和歌を詠じて追福として備えられた。

(足利季世記)

六角高頼の最期について。



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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    応仁の乱のあたりで十歳頃から活動してる事を考えると、この六角高頼も息の長い武将だね。
    自身も幕府秩序の撹乱者だけど、家中でも六角政堯・虎千代親子、山内就綱、伊庭貞隆と、内紛続きの中、勝ち続けてきたのはさすがのしぶとさだ。
    この六角高頼とか、赤松政則とか、斯波義寛みたいな、応仁の乱の生き残りはなんだかんだあってもしぶといね。

  2. 人間七七四年 | URL | -

    ※1
    斯波は応仁の乱を待つまでも無く宗家が断絶して他の名門より先にガタついてたの考えると義寛の代はかなり頑張って建て直したほうだよな。
    義達がミスってなければ16世紀後半の尾張や日本の歴史は全く違ったものになってたかもしれない

  3. ※1 | URL | -

    ※2
    赤松も嘉吉の乱からの巻き返し組だから、本当にしぶといね。
    猿楽師の件や浦上則宗との確執があって放逐されたのに、結局は復帰してるし、赤松政則も長生きしてたら、畿内の歴史もかなり様変わりしてたかもね。

  4. 人間七七四年 | URL | -

    ※2
    今川に負け続けたのがねえ。
    結局斯波家と織田大和守家の君臣が争って潰し合う形になって、大和守家の家臣の織田弾正忠家が台頭する事になる訳だからねえ。
    勝てなかった今川家を崩壊させる切欠になった桶狭間に勝ったのが、弾正忠家の信長てのも皮肉と言うかなんと言うか。
    本当に歴史変わるね。

  5. 人間七七四年 | URL | -

    斯波義寛は戦で負けすぎや。朝倉や今川が強いのは
    実戦経験も多いんで戦法や軍団構成が進化していた可能性があるが。

  6. 人間七七四年 | URL | -

    越前奪還の失敗は明確に義寛自身の負けだろうけどそれ以上に運が悪すぎるのがなあ…
    遠江の斯波派が今川義忠を討ち取って一時的にかなり混乱させたのによりによって戦国屈指の傑物の北条早雲が出張ってきて今川を前より強くしちゃったり
    地位向上のために中央の軍役に励んでいたら明応の政変で台無しになったり、復活した今川が遠江に再攻勢かけ出したと思ったらほぼ同時に船田合戦に巻き込まれたりとか呪われてんのかってレベル

  7. 人間七七四年 | URL | -

    なお、赤松政則(1455年生まれ)、六角高頼(1456年頃生まれ)、斯波義寛(1457年生まれ)は同年代でもある。
    赤松政則と斯波義寛は応仁の乱ではともに一貫して東軍で、六角高頼は西軍。
    赤松も斯波も応仁の乱後の足利義尚や足利義材の遠征に従って、六角を攻めた事もある。

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