635 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/12/02(月) 14:12:43.45 ID:HJq7LjB6
小田原北条氏の重臣である松田尾張入道(憲秀)、およびその次男である左馬助(直秀)は、
秀吉の小田原征伐に際し、城の西方、早川口を守っていたが、尾張入道は以前より北条家に対し
二心を抱き、最初豊臣方の堀左衛門督秀政と内通していたが、秀政病死の後は細川越中守忠興、
黒田勘解由孝高に属し、また上方勢に内通を成せば伊豆相模の両国を宛行うべき旨、豊臣秀吉公より
墨付きを送られていた。
天正十八年六月八日の夜に入って、尾張入道は嫡子・笠原新六郎(政晴)、次男・左馬助(直秀)、
三男・源次郎を人気のない場所へ招くと、このように言った
「近年の両府君(北条氏政・氏直)は、以前とは違い、この尾張入道に対して万事粗略にして、
心を隔てられている有様である。私は以前よりこれについて深い憤りを抱いていたが、時を得ずして
今まで何も出来なかったが、今、北条を離れ豊臣家に従属して長く子孫の栄幸を得たいと思う。
この事を理解してほしい。」
これについて、嫡男の笠原新六郎は基より父に逆心を勧めていた立場であったため
「全く然るべきです。」と申したが、次男の左馬助幼年より氏政の寵愛を受け、昼夜膝下より
去ること無く、現在も他に異なるほど昵近であったため、ここにおいて進退窮まり、落涙を押さえながら
申した
「急なことですが、我々は既に君臣五代の間家運を共にし、恩を頂き忠を励んできました。なのに
今この時に至って、本来潔く死して道を守るべき譜代の我々が、相伝の主君を傾けて不義の汚名を
挙げるなど、これ以上に天下から批判される事は無く、死後にも悪名がつきまとうでしょう。
そのような野心を控え、忠死を旨とすべきです。」
尾張入道はこれを聞くと
「私がこのように考えているのは、お前たちを生きながらせたいと不憫に思うからだ。しかし
同心無いというのならば力及ばず、子に対してであっても面目が立たないので、皺腹を切るより
他ない。」と短刀に手をかけた
左馬助は慌てて押し止め、「そこまで思い極められておられる以上は、兎にも角にも父上の命に
お任せします。」と宥めると、尾張入道も悦んだ。
それから五、六日過ぎて、十四日の夜に、聟である内藤左近太夫、並びに舎弟松田肥後守、及び三人の
子供を集めて茶会を催し饗応したが、その際尾張入道は
「当城の傾敗も近いと見える。この上は上方一味の志を顕し、明日夜に入って細川、池田、堀の
軍勢を我が持ち口に引き入れようと思う。この事を寄せ手に言い送るべし。」と私語した
これを聞いた左馬助は、この企てを暫く伸ばそうと考え
「先に密かにこの話を承ったのは八日、、また明日は十五日ですが、それらは共に不成就日であり、
何となく心に引っかかります。いま一両日伸ばしては如何でしょうか。」と申した所、
尾張入道も「そういう事であるなら。」と十七日に定め、「もはや違変は無いぞ。」と言って、
その日の密談は終わった。
そうして左馬助が陣所に帰る時、尾張入道は急に思案し「左馬助は普段より忠義を専らとるる
者であり、もし志を変じては由々しき事態である。」と考え、横目付の士を二名付けて帰らせた。
左馬助は仕方なく、普段本丸に置いている着料の鎧に用が有ると言って近習を遣わして取りに行かせた。
そしてその夜、かの鎧を入れていた具足櫃の中に入るとそのまま密かに運ばせ、子の刻(午前〇時頃)
本丸に入り、氏政・氏直父子に謁見し、「老父の一命を賜るのであれば、一大事をお知らせいたします。」
よ申し上げた。氏政も「これは仔細があるに違いない。」と考えその旨を約束すると、彼は父尾張入道の
陰謀について在るが儘に告白し、自身はまた直ぐに陣所へと帰った。
636 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/12/02(月) 14:13:21.71 ID:HJq7LjB6
氏政父子は大いに驚き、二ノ丸の片廓は定例の奉行頭人の集会の為の内評定の場所であったので、
翌日「火急の相談が有る。」と尾張入道をこの場所に呼んだ。松田はさにあらぬ体にて、袖なしの
陣羽織を着て「一体何事でしょうか」と出座した所、北条陸奥守氏照、板部岡江雪斎が彼に向かって
「あなたの逆心の企てが明らかであると突然に知らされた。どうして累代重恩の主君に背いて
別心を挟んだのか。本来なら死罪にすべきであるが、宥恕あり押籠めとする。」
と告げた。これに松田は些かも悪びれず
「かつて武田信玄が当表に乱入した時も、私が敵方に一味したという風説が流れたため、人質を
取られたでは有りませんか。しかしこれは敵の間者による計略であり実態は有りませんでした。
今回もまた間者や讒人による悪意ある風説でしょう。」と事も無げに申し上げた。しかし
「いや、そのような言い訳は無駄だ。これはあなたの肉親によって露呈された事であり、
妄言の類ではない。」
この氏照、江雪斎の言葉に入道は屈服し、一間の場所に押込められ、番兵を付けられた。
この時、尾張入道の召し使っていた岡部小次郎という、当時十五歳の少年であったが、内々に
密談のあらましも聞いており、心もとなく思って入道の跡を付けて陣所を出て、軒伝いに片廓の
建物の上に這い登り、その始末を聞き届けた。これによって、彼は後日徳川家康に召し出され
家臣の列に加えられたという。
松田の旗は白地に黒筋であった。十七日の夜、細川忠興、池田輝政、および堀家の人数は手引の
合図を待ち受けていたが、松田の持ち口では彼の旗、馬印が取り払われてみ知らぬ旌旗に立ち代った。
これを見て「さては陰謀露呈して警護の武士が交代したか。」と寄せ手も推察し、この事態について
協議している間に事の次第が噂として世間に流れたため、上方勢も手を空しくして引き上げた。
左丘明の伝に、『大義滅親(大義、親を滅ぼす)』という言葉がある。この時の左馬助の行為は、
忠貞余りあり、不孝もまた甚だしい。何を是として何を非とするべきなのだろうか。
後世の判断を待ち、私はあえてこの是非を論じない。
(関八州古戦録)
小田原北条氏の重臣である松田尾張入道(憲秀)、およびその次男である左馬助(直秀)は、
秀吉の小田原征伐に際し、城の西方、早川口を守っていたが、尾張入道は以前より北条家に対し
二心を抱き、最初豊臣方の堀左衛門督秀政と内通していたが、秀政病死の後は細川越中守忠興、
黒田勘解由孝高に属し、また上方勢に内通を成せば伊豆相模の両国を宛行うべき旨、豊臣秀吉公より
墨付きを送られていた。
天正十八年六月八日の夜に入って、尾張入道は嫡子・笠原新六郎(政晴)、次男・左馬助(直秀)、
三男・源次郎を人気のない場所へ招くと、このように言った
「近年の両府君(北条氏政・氏直)は、以前とは違い、この尾張入道に対して万事粗略にして、
心を隔てられている有様である。私は以前よりこれについて深い憤りを抱いていたが、時を得ずして
今まで何も出来なかったが、今、北条を離れ豊臣家に従属して長く子孫の栄幸を得たいと思う。
この事を理解してほしい。」
これについて、嫡男の笠原新六郎は基より父に逆心を勧めていた立場であったため
「全く然るべきです。」と申したが、次男の左馬助幼年より氏政の寵愛を受け、昼夜膝下より
去ること無く、現在も他に異なるほど昵近であったため、ここにおいて進退窮まり、落涙を押さえながら
申した
「急なことですが、我々は既に君臣五代の間家運を共にし、恩を頂き忠を励んできました。なのに
今この時に至って、本来潔く死して道を守るべき譜代の我々が、相伝の主君を傾けて不義の汚名を
挙げるなど、これ以上に天下から批判される事は無く、死後にも悪名がつきまとうでしょう。
そのような野心を控え、忠死を旨とすべきです。」
尾張入道はこれを聞くと
「私がこのように考えているのは、お前たちを生きながらせたいと不憫に思うからだ。しかし
同心無いというのならば力及ばず、子に対してであっても面目が立たないので、皺腹を切るより
他ない。」と短刀に手をかけた
左馬助は慌てて押し止め、「そこまで思い極められておられる以上は、兎にも角にも父上の命に
お任せします。」と宥めると、尾張入道も悦んだ。
それから五、六日過ぎて、十四日の夜に、聟である内藤左近太夫、並びに舎弟松田肥後守、及び三人の
子供を集めて茶会を催し饗応したが、その際尾張入道は
「当城の傾敗も近いと見える。この上は上方一味の志を顕し、明日夜に入って細川、池田、堀の
軍勢を我が持ち口に引き入れようと思う。この事を寄せ手に言い送るべし。」と私語した
これを聞いた左馬助は、この企てを暫く伸ばそうと考え
「先に密かにこの話を承ったのは八日、、また明日は十五日ですが、それらは共に不成就日であり、
何となく心に引っかかります。いま一両日伸ばしては如何でしょうか。」と申した所、
尾張入道も「そういう事であるなら。」と十七日に定め、「もはや違変は無いぞ。」と言って、
その日の密談は終わった。
そうして左馬助が陣所に帰る時、尾張入道は急に思案し「左馬助は普段より忠義を専らとるる
者であり、もし志を変じては由々しき事態である。」と考え、横目付の士を二名付けて帰らせた。
左馬助は仕方なく、普段本丸に置いている着料の鎧に用が有ると言って近習を遣わして取りに行かせた。
そしてその夜、かの鎧を入れていた具足櫃の中に入るとそのまま密かに運ばせ、子の刻(午前〇時頃)
本丸に入り、氏政・氏直父子に謁見し、「老父の一命を賜るのであれば、一大事をお知らせいたします。」
よ申し上げた。氏政も「これは仔細があるに違いない。」と考えその旨を約束すると、彼は父尾張入道の
陰謀について在るが儘に告白し、自身はまた直ぐに陣所へと帰った。
636 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/12/02(月) 14:13:21.71 ID:HJq7LjB6
氏政父子は大いに驚き、二ノ丸の片廓は定例の奉行頭人の集会の為の内評定の場所であったので、
翌日「火急の相談が有る。」と尾張入道をこの場所に呼んだ。松田はさにあらぬ体にて、袖なしの
陣羽織を着て「一体何事でしょうか」と出座した所、北条陸奥守氏照、板部岡江雪斎が彼に向かって
「あなたの逆心の企てが明らかであると突然に知らされた。どうして累代重恩の主君に背いて
別心を挟んだのか。本来なら死罪にすべきであるが、宥恕あり押籠めとする。」
と告げた。これに松田は些かも悪びれず
「かつて武田信玄が当表に乱入した時も、私が敵方に一味したという風説が流れたため、人質を
取られたでは有りませんか。しかしこれは敵の間者による計略であり実態は有りませんでした。
今回もまた間者や讒人による悪意ある風説でしょう。」と事も無げに申し上げた。しかし
「いや、そのような言い訳は無駄だ。これはあなたの肉親によって露呈された事であり、
妄言の類ではない。」
この氏照、江雪斎の言葉に入道は屈服し、一間の場所に押込められ、番兵を付けられた。
この時、尾張入道の召し使っていた岡部小次郎という、当時十五歳の少年であったが、内々に
密談のあらましも聞いており、心もとなく思って入道の跡を付けて陣所を出て、軒伝いに片廓の
建物の上に這い登り、その始末を聞き届けた。これによって、彼は後日徳川家康に召し出され
家臣の列に加えられたという。
松田の旗は白地に黒筋であった。十七日の夜、細川忠興、池田輝政、および堀家の人数は手引の
合図を待ち受けていたが、松田の持ち口では彼の旗、馬印が取り払われてみ知らぬ旌旗に立ち代った。
これを見て「さては陰謀露呈して警護の武士が交代したか。」と寄せ手も推察し、この事態について
協議している間に事の次第が噂として世間に流れたため、上方勢も手を空しくして引き上げた。
左丘明の伝に、『大義滅親(大義、親を滅ぼす)』という言葉がある。この時の左馬助の行為は、
忠貞余りあり、不孝もまた甚だしい。何を是として何を非とするべきなのだろうか。
後世の判断を待ち、私はあえてこの是非を論じない。
(関八州古戦録)
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コメント
人間七七四年 | URL | -
氏直助命と北条家存続を約定させる代わりに追腹を切る心算だったと介錯すれば憲秀も忠臣ぞ
( 2019年12月03日 10:55 )
人間七七四年 | URL | -
嫡子の方が名字違うの?とwikiみたら過去に滅亡直前の武田に寝返ってたヤバい奴だった
( 2019年12月03日 11:35 )
人間七七四年 | URL | -
憲秀は本来松田家庶流という話を聞いたことがあるので、笠原家名跡の方がおいしかったのでは
( 2019年12月03日 13:46 )
人間七七四年 | URL | -
忠と孝、のどっちもどっちクイズ!
( 2023年03月21日 17:37 )
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