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太夫殿からの意見

2019年12月16日 18:36

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/16(月) 14:57:54.04 ID:r8/T39Ix
慶長十九年八月下旬、片桐市正(且元)は江戸に呼ばれ、家康公より
豊臣秀頼による大仏再建の成し様が悪い。」との事で、御袋(淀殿)か秀頼が江戸に下るように、
との仰せがあった。市正は大阪に帰るとその通りに申し上げたが、御袋様も秀頼も「江戸に下る
事は出来ない。」との意向で、秀頼に至っては、市正が江戸にて心変わりしてこのような事を
言っているのだと思った。その後色々有って、太夫殿(福島正則)の意見を聞きたいという事になり、
太夫殿より、堀田角左衛門という侍が大阪によしみが有ったためこれを上らせ、このように申し上げた

「ここは御袋様が江戸に御下りになり、家康公と御対面あった上でまた大阪に戻るべきです。
御姉妹方(妹のお江の方)へ御挨拶遊ばすという事にすれば宜しいでしょう。」

太夫殿からの意見はこのようなものであったが、全く御同心無く、逆に非常に御立腹されて
「重ねてこのような意見を申してはならない。」との返答をされた。

この返事が持ち帰られると、太夫殿は未だ見ぬ内に、使者の堀田に申し付けた
「大坂からの御返事を頂いた以上、これは直に家康公に差し上げるべきだ。」
こうして返事は家康公の元に届けられ、家康公はこれを一覧すると以ての外に御腹立ちに成り、
即座に京への出陣を命じ、諸大名も尽く軍勢を連れ大阪へと向かった。

この時太夫殿はこのように申し上げた
「私は秀頼を攻めることは出来ません。ですので嫡男の備後守(福島忠勝)を上らせたいと思います。
この太夫には江戸の留守を仰せ付けられますように。」
これを「如何にも尤もな事だ。」と思われ、「備後守を急ぎ上らせるように。」として、
備後守は大阪へと上った。

(福島太夫殿御事)

秀頼から福島正則への返答に家康公激怒し大坂の陣に



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コメント

  1. 名無しさん | URL | -

    市松「国家安康のためにここはひとつ」
    家康「かんぜんにブッチーン」

  2. 人間七七四年 | URL | -

    市松もキレてそう。
    意見聞いといてそんな意見二度と言うなって。

  3. 人間七七四年 | URL | -

    感情で旧主家を滅ぼした男

    福島正則

  4. 人間七七四年 | URL | -

    感情と打算やぞ
    まあ市松が秀頼に一味しても、ましてなんもせんでも豊家は亡んどったから差し引きゼロや

  5. 人間七七四年 | URL | -

    秀頼「市松の意見が聞きたい」
    正則「会わないという選択肢は無いな。母ちゃんが妹に会いにきたよーって言えば格好つくじゃん?」
    秀頼「二度と言うな」

    つまり正則には「江戸まで行って家康に会わない理由を考えて欲しかった」
    もしくは「市松から徳川方に抗議してもらい、拒否されたらメンツつぶされた市松巻き込んで戦するつもりだった」
    って事かね。

  6. 人間七七四年 | URL | -

    ※5
    彼女の車が故障したコピペを思い出した

  7. 人間七七四年 | URL | -

    ※6
    面倒くさい女にしか見えないよなw
    女「会いたくない人に会ってほしいって言われたんだ」
    男「将来の為に会っといた方がいいよ」
    女「会いたくないって言ったでしょ⁈
    私の気持ちも分からないなんて、二度と口きかない!」

  8. 人間七七四年 | URL | -

    メ○ヘラ母さんvsメ○ヘラ酔っ払い
    田中真紀子と梅沢富美男か故萩原健一か清水健太郎辺りが会談してると思えば何となく納得出来た

  9. 人間七七四年 | URL | -

    秀頼の残念な話がまた一つ増えたか・・・

  10. 人間七七四年 | URL | -

    この話しの秀頼って駄目上司その物の意見だね。そんな話し聞きたくないから二度と言うなって、
    態度が通らないから江戸から要求されてるのに。

  11. 名無しさん | URL | -

    いやそもそも秀頼が家康の指示を受ける筋も義理もないんだから当然でしょ
    豊臣家が金だして作った寺に家康が因縁つけてきただけなんだから

  12. 人間七七四年 | URL | -

    ※11
    改易される前の信雄もそう思ってたと思うよ>指示を受ける筋も義理もない

  13. 名無しさん | URL | -

    なんで?信雄は信長によって他家に追い出された北畠の人間であり、織田家の宿老である秀吉からすると信長の息子であろうと、織田家に従属する家にすぎず、ただの家臣でしかない
    最近見つかった手紙でも、清州会議において信雄は秀吉に懇願してしており、当時においてすら秀吉>信雄という地位は確定しており、
    信雄は秀吉の指示を受ける立場だったのは明白でしょう

  14. 人間七七四年 | URL | -

    ※13
    >他家に追い出された
    他家に養子送り込んでそのままお家乗っ取りなんて古今東西珍しくもない。ましてや正当な後継者の信忠がいる以上、そのまま織田家に置いとく方が問題あると思うけど?

    >信雄は秀吉に懇願
    自身を後継者に据えるため有力者の支持を取り付けようと運動するのはおかしくないのでは?

    >当時においてすら秀吉>信雄という地位は確定
    この時点では織田家の一家臣でしかない以上、仕えている織田家後継者(候補)の方が地位が上・・・というか、秀吉・丹羽・池田達が後日清州会議での決定を保護にして信雄を織田家当主として擁立してるため(実態はともかく形式上は)明確な主従関係にあった
    この『主従』関係が変わるのは賤ヶ岳以降

  15. 人間七七四年 | URL | -

    ※14訂正
    ×保護
    ○反故

  16. 人間七七四年 | URL | -

    ※13
    ごめん、その意見はないわー。少なくても歴史好きな人間がする目じゃないって。そもそも信雄は
    腐っても信長の息子として一門衆の地位にある人間であり、そして秀吉よりも大禄の大名でもある。
    馬揃え見れば立場は一目瞭然です。

    なぜその時点で秀吉よりも地位も名誉も上の大名が、他家を継いだ程度で秀吉よりも下なのでしょ?
    もしその理論で言うなら、信孝だって同じ境遇の筈です。
    しかも、清須の決定は家康も納得しての物。だから少なくても天正13年頃までは立場上秀吉より上。

  17. 人間七七四年 | URL | -

    仮に清須会議時点で秀吉>信雄だったとしても
    その後三家老を斬って手切れに及んだ時点でガラガラポンよ

  18. 人間七七四年 | URL | -

    ※11
    因縁つけるも何もこの頃の常識で基本、諱を犯す(割る)というのは普通に呪詛を疑われても仕方ない行為
    また方広寺鐘銘事件に関しては事前に家康側の了解を取ろうとしていなかったのも追及が執拗になった一因になってる

  19. 人間七七四年 | URL | -

    大石氏の養子となった経歴のある北条氏照は、小田原征伐時に氏政とともに他ならぬ秀吉に切腹させられており、一方で氏政の他の弟達は助命されている。「他家に追い出された」なんて認識がちょっとでもあったらそんな戦後処理やらないと思う

  20. 人間七七四年 | URL | -

    言ってはなんだけど「ここのブログで名前変える人は、ちょっとアレ説」がまた実証されちゃった感あるね
    歴代の変えた人も大抵酷い歴史観や人物感な人多かったし
    間違えるなんてのは誰でもやるし、その後でも良いから知れば良いだけなんだけど、ならせめて調べてから
    書けば良いのにってのも正直な感想なのよ

  21. 人間七七四年 | URL | -

    秀頼も二条城で臣従しといてこの態度なんだから見苦しい、往生際が悪いとしか言い様がありませんね。
    織田秀信が死ぬ二年前のラスボス相手に同等の挑発をかました上、旧織田家筋に檄を飛ばして挙兵なんぞやらかしたらどんな目に合っただろうか?…と考えるとねぇ。

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