431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/22(日) 03:32:34.06 ID:KhFbavMu
高麗御陣の時、私(清水景治)は小早川隆景隊に属し辛労を仕っていた所に、高麗の都に至り、
蔚山の城が小西摂津守(行長)に仰せ付けられた。所がここに大明勢数万騎が押し寄せ、これを
攻め破ろうとした。これに備前中納言(宇喜多秀家)が先手をすると仰せになり攻めかかったが、
散々に仕損じたため、代わって小早川隆景に先手が仰せ付けられ、立花飛騨守(宗茂)殿もその
一手として仰せ付けられ、同じ場所で合戦に及んだ。
その時私は、鉄砲百挺を御預けされ、井上五郎兵衛の一手として、一番備にて働いた。二番備は
粟屋四郎兵衛に佐世與三左衛門が鉄砲百挺で在った。
大明勢は大敵であり、味方は一度は踏み留まったものの、中々の強敵であったため叶わず、味方は
崩れ足になった所を、清水五郎左衛門(景治)が踏み留まり鉄砲を撃ち立てたため明軍も引き足となった。
ここで一番備、ニ番備が明軍ともみ合いになり、終に勝利を得た。この時、日本の諸侍は多く討ち死にし、
当家(小早川家)の歴々も討ち死にした。
その日の働きについて、清水五郎左衛門は「自身が踏み留まった為に勝利を得た」と申し上げた。
井上五郎兵衛は「某が踏み留まった故に、相組の諸勢も踏みこたえたのだ。」と言上した。
粟屋四郎兵衛は「一番備が崩れたにもかかわらず、ニ番備が堅固に控えていたからこそ、一番備も
大崩れすることが無かったのだ」と申し上げた。
これについては、互いの詮議、上よりの御下知も済まないまま日本への帰陣となり、名護屋に於いて
詮議を成すこととなった。
ここで、右の三人は、同じだけの働きがあったと御詮議相済み、
『井上五郎兵衛、粟屋四郎兵衛、其方(清水景治)は、同意の働きであり神妙に思し召す』との御感状が
下された。残りの二人(立花宗茂、佐世與三左衛門)にも、同じ御文体にて御感状が遣わされた。
並びに、同日に印二つの御感状下され、一日に両度の御判物を頂戴仕り置いたのである。
(淸水長左衛門尉平宗治由來覺書)
清水景治の朝鮮役での活躍と、戦功の認定が意外とめんどくさいことに成ってたらしいというお話
高麗御陣の時、私(清水景治)は小早川隆景隊に属し辛労を仕っていた所に、高麗の都に至り、
蔚山の城が小西摂津守(行長)に仰せ付けられた。所がここに大明勢数万騎が押し寄せ、これを
攻め破ろうとした。これに備前中納言(宇喜多秀家)が先手をすると仰せになり攻めかかったが、
散々に仕損じたため、代わって小早川隆景に先手が仰せ付けられ、立花飛騨守(宗茂)殿もその
一手として仰せ付けられ、同じ場所で合戦に及んだ。
その時私は、鉄砲百挺を御預けされ、井上五郎兵衛の一手として、一番備にて働いた。二番備は
粟屋四郎兵衛に佐世與三左衛門が鉄砲百挺で在った。
大明勢は大敵であり、味方は一度は踏み留まったものの、中々の強敵であったため叶わず、味方は
崩れ足になった所を、清水五郎左衛門(景治)が踏み留まり鉄砲を撃ち立てたため明軍も引き足となった。
ここで一番備、ニ番備が明軍ともみ合いになり、終に勝利を得た。この時、日本の諸侍は多く討ち死にし、
当家(小早川家)の歴々も討ち死にした。
その日の働きについて、清水五郎左衛門は「自身が踏み留まった為に勝利を得た」と申し上げた。
井上五郎兵衛は「某が踏み留まった故に、相組の諸勢も踏みこたえたのだ。」と言上した。
粟屋四郎兵衛は「一番備が崩れたにもかかわらず、ニ番備が堅固に控えていたからこそ、一番備も
大崩れすることが無かったのだ」と申し上げた。
これについては、互いの詮議、上よりの御下知も済まないまま日本への帰陣となり、名護屋に於いて
詮議を成すこととなった。
ここで、右の三人は、同じだけの働きがあったと御詮議相済み、
『井上五郎兵衛、粟屋四郎兵衛、其方(清水景治)は、同意の働きであり神妙に思し召す』との御感状が
下された。残りの二人(立花宗茂、佐世與三左衛門)にも、同じ御文体にて御感状が遣わされた。
並びに、同日に印二つの御感状下され、一日に両度の御判物を頂戴仕り置いたのである。
(淸水長左衛門尉平宗治由來覺書)
清水景治の朝鮮役での活躍と、戦功の認定が意外とめんどくさいことに成ってたらしいというお話
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コメント
人間七七四年 | URL | -
武士の世界は本当に面倒臭いと感じる。あっちを立てればこちらが立たずを地で行ってますね。
だからこそお互いが切磋琢磨した部分もあるのでしょうが、少なくてもこの時代に生まれて良かった。
( 2019年12月22日 17:51 )
人間七七四年 | URL | -
小早川に与力していたとは言え一大名の宗茂も同等に賞されるのか
それとも立花家の誰かが感状受けたってことの略かな
( 2019年12月22日 18:00 )
人間七七四年 | URL | -
※1
元寇の竹崎さんの頃から今の時代でも、サラリーマンの世界やら色々な世界で言ったもん勝ちやったもん勝ち、努力した者が報われたり報われなかったりで揉めたり揉めなかったりな話はあるし、古今大小問わずこう言う事って良くある事じゃないですかね?
( 2019年12月22日 18:29 )
人間七七四年 | URL | -
※3
現代社会で恥をかいたとかで、腹掻っ捌いたり人襲ったりしますかね?そう言う意味で書いたんだけど、
少なくても俺の周りでそんな事起きたこと無いんだけど、良くある事なの?怖いわ~その街
( 2019年12月22日 22:32 )
人間七七四年 | URL | -
※4
>現代社会で恥をかいたとかで、腹掻っ捌いたり人襲ったりしますかね?そう言う意味で書いたんだけど、
その内容を略したつもりにしても※1の文章からそれを察するのはまず不可能だと思いますよ。
( 2019年12月22日 22:50 )
人間七七四年 | URL | -
このコメ欄に現代の市松さんらしき人物が居てますね…
( 2019年12月22日 23:03 )
人間七七四年 | URL | -
※3
竹崎秀長の絵巻が描かれたのは恩賞を受けたずっと後。記念として描かせたもの。
従来言われていたような絵巻を描かせてアピールしたってのは嘘だから。
その証拠にあの絵巻で描かれている竹崎秀長はまるで良いところはなく、救援に駆けつけた白石通泰に助けられましたって情けない話だから。そもそも秀長は大した武功も立ててないしね。有名な秀長が突撃かましてるあのシーンって実は無様な失敗シーンで、あの後の白石通泰の救援シーンの方が重要なのよ。
というか肥後の侍は昔から見掛け倒しで大して役に立ったことなんてないぞ。万年鉢植えの土地は伊達じゃない。
( 2019年12月22日 23:44 )
人間七七四年 | URL | -
※7
揚げ足取ってすまないが
竹崎秀長って誰だ?季長だよ。
まぁ、彼が連れて来たと言う5名程度の戦力ではロクに戦功も立てられなかろうが、それでも後々訴訟まで起こして褒賞を得たのは事実なので、事実を資料でしか知り得ない我々現代人がが断定的にそこまで言うのも如何なものかと。
ましてや一地域に対して差別的な勘違いを流布させそうな断言は憚るべきと思いますよ。
( 2019年12月22日 23:52 )
人間七七四年 | URL | -
,j;;;;;j,. ---一、 ` ―--‐、_ l;;;;;;
{;;;;;;ゝ T辷iフ i f'辷jァ !i;;;;;
ヾ;;;ハ ノ .::!lリ;;r゙
`Z;i 〈.,_..,. ノ;;;;;;;;> 竹崎さんのこと、禿長だと
,;ぇハ、 、_,.ー-、_',. ,f゙: Y;;f そんなふうに考えていた時期が
~''戈ヽ `二´ r'´:::. `! 俺にもありました
( 2019年12月23日 00:00 )
人間七七四年 | URL | -
???「ハゲだとぉ…」
( 2019年12月23日 00:14 )
人間七七四年 | URL | -
小早川、宇喜多、立花の面々を見るに碧蹄館の戦いにおける一コマなのかな
( 2019年12月23日 00:58 )
人間七七四年 | URL | -
こないだアニメにもなった『アンゴルモア』っていう元寇を題材にした漫画が、今ちょうど竹崎季長の一騎駆けのところをやってるけど、なかなかいい感じだった。
主人公しばらく出てないんだけどねw
で、文永の役ではイマイチの竹崎季長ですが、鎌倉で安達泰盛への直訴が通ったのは、彼の烏帽子親が、幕府重鎮の二階堂行忠の被官で長門国守護代の三井季成だった、という人脈が作用したという話も…いつの時代もコネってのは大事だな!
そんな竹崎さんも、弘安の役では人の舟に図々しく相乗りして敵船に乗り込み、大暴れの末首をとるという文句なしの功を立てているから、やはりひとかどの武人なんだろうね。
( 2019年12月23日 01:28 )
人間七七四年 | URL | -
早速コメ欄で面倒臭いことになっててワロタw
( 2019年12月23日 10:33 )
人間七七四年 | URL | -
それにしても蒙古襲来絵詞が恩賞を得るための宣伝(=だから信用できない)的な話って誰が最初に言い出したんだろう?
恩賞を訴える場面が絵詞の中にあって描いた時点でそれが過去の出来事なのは明白な訳だから、もしちゃんとした研究者が言い出したんだとしたら描かれた目的を捏造して史料価値を貶めようとしたか研究者の癖にちゃんと話を読んでなかったかの二択にしかならないよな。
( 2019年12月23日 12:28 )
人間七七四年 | URL | -
仮に宣伝目的の絵だとしても
当時、着想から絵の構図を細かくキメて完成させるのにどれぐらい時間かかったんだろう?
当時は肖像画書かせるのにも相当お金かかっていたはずなのにアレだけの大作を貧乏御家人(とされている)
竹崎家だけで作成出来たものなのか
あの絵巻、今に至るまでしっかりと残っているし紙や顔料も気を使っているのかな
wiki見てもどういう経緯でここまで重要資料として残ってきたのかよくわからない
( 2019年12月23日 13:36 )
人間七七四年 | URL | -
武功の認定は基本的に武士個人に帰するものなので、部隊指揮よりも個人の頸取りの方が優先されたそうで、それで指揮を放り出して頸取りに勤しむ武士が多かったとか。
ただ、論功にはのぼらなくとも、査定には優遇があったようで、部隊指揮が巧みだと上の心証はよかったみたいだ。
今回のようにはっきり武功として認められるのは島原の乱以降で、この文禄の頃だとかなりレアケースなんだろうから、わざわざ書き遺したのかもね。
( 2019年12月24日 16:57 )
人間七七四年 | URL | -
※15
『蒙古襲来絵詞』作成時の竹崎季長は、文永の役の恩賞でもらった肥後国海東郷の地頭職に加え、弘安の役でも場所不明ながら恩賞を受けていたりと、勝ち組なのでかなり裕福なのだ。
どの程度裕福かというと、永仁元年(1293年)に出家した際に新たに菩提寺として塔福寺を建立するくらい、裕福だった。
寛元四年(1246年)に生まれた季長は没年不詳ながら元享四年(1324年)まで活動していたようで、結構長命なんだな。
季長は義理堅い性格だったのか、没落して自身を頼ってきたかつての恩人である肥前国御家人の白石通泰を、正応二年(1289年)に 勧請した海東阿蘇神社の神主にたてたりしている。
安達盛宗や小弐景資のような、知り合いが多数滅亡した岩戸合戦の時はなにしてたのかとか、いろいろ思うところはあるけど、なかなか面白い人物だと思うよ。
( 2019年12月24日 17:41 )
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