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館林城の築城由来

2020年02月25日 17:48

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/24(月) 19:21:11.37 ID:Gm8naern
享禄元年、上野国青柳城主の赤井照光が、初春の祝として甥である同国舞木城主の俵五郎秀賢の御座に、
供人少々にて向かっていた所、近藤という場所にて五、六人、八、九歳ほどの童子が集まり、狐の子を捕らえて
打擲していた。
赤井照光はこれをはるかに見ると、供の鉢形惣次郎を以て児童共に銭を与え、狐の子を助け離した。

晩頃に帰城した所、助けた狐の親が人と化けて照光の馬の前に畏まり、このように言った

「私は今朝あなたが助け給うた狐の親であります。君の御厚恩、何を以てか報じ奉らん。
今、君の御居城である青柳は勝地であると雖も、敵が寄せやすく、味方の千騎が敵の百騎に等しいと
言えるでしょう。その故は、あなたの御先祖である照重公、去る文治四年に赤岩屋敷より青柳に築城あって、
この享禄まで城主七代、年数三百四十一年、武勇盛んにして子孫繁栄と雖も、現代は国衰え、民苦しんで
城中日々衰微しています。

その証拠は、例えば広沼は敵を防ぐためのものでしたが、現在は田畑と成っており、擁護の神霊も手を
貸せません。その上諸国乱世と成って、去る永正九年に武州鉢形の城主を始め、同十七年に上州高田の城、
大永元年十月二十三日武州杉山の城、同四年正月十三日武州江戸の城が落城しました。戦が弱いわけでなく、
擁護の神霊が威を失い給う故なのです。

このような乱世においては、名城に移らせ給うべきです。館林に築城あらば、当国の名城と成り申す。」
そう語ると消えるように失せた。

赤井照光は不思議の事に思い、その翌日、大袋という所に出て巡検し、屋形構え、町小路を定め、ここに
住むように成った。

その年の七夕の夜、照光が南面に出た所、衣冠正し客が庭前に立っていた。
照光は怪しみ、何者かと聞いた所、客答えて曰く
「我は当国無双の稲荷、新左衛門という者である。過ぎし春、告げる所の築城をあなたは思い立たされた。
我がその城取り(縄張り)を参らせよう。」

そう言うとたちまち白狐となり、そのあくる夜より多くの狐火を立てて城取りし、その内容は本城、二、三の丸、
合図、物見、鐘鼓の場、武者溜、七重の築城、八重の堀、外曲輪、町家に至るまで軍書に違うこと無かった。
照光は奇異のことと思われ、その通りに築城して住まわれた。現在、城中の鎮守八幡宮に、青柳の稲荷宮を
勧請してあるのはこの謂れによるのである。

(館林盛衰記)

館林城の築城由来



687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/24(月) 19:52:37.79 ID:dTPfQRk3
武州杉山の城、って築城時期が「杉山城問題」として問題になっている
城跡だけ見たら難攻不落に見える杉山城?
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    この逸話だと母親が登場となっていますが、神社側の逸話だと衣冠姿の老人となっています。
    縄張りの際に尾を曳き始めた場所を「宵稲荷神社」、曳き終えた場所に「夜明稲荷神社」と言う神社が鎮座
    されています。そして照光によって城内に創建されたのが「尾曳稲荷神社」です。
    ちなみに全て城主となった榊原康政によって再建されています。

    当然の事ながら神社が創建(1532年)された理由は鬼門封じの為です。だとしても、こんなエピソードを作る
    位に狐が関わっている=稲荷信仰に至った理由は、群馬県内の付近にある稲荷神社を見ても、そこまでは詳しく
    書いておらず分かりませんでした。

    むしろ、太田市内の冠稲荷(総本山)の方が源義国創建(1125年)にして義経が奥州討伐の際に立ち寄り、
    新田義貞が戦勝祈願をした源氏縁の「日本七社」として有名なので、館林の人達しか興味ないのでは?
    上毛かるたにも載っているのは冠稲荷だし。
    上記の通り群馬県には源氏縁の神社仏閣が多いので、自然と稲荷信仰が根付いていたと思われます。

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