692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/27(木) 03:09:08.14 ID:aKB9yww/
南部信直・利直とプロパガンダ
青森三戸では三戸斗賀霊験堂・善徳院によって熊野権現の申し子という南祖坊が八郎太郎を討伐して十和田湖の主となる「十和田の本地」が作成された。
三戸を本拠とした南部氏は、『祐清私記』で利直の武勇は夢に南祖坊が現れたためであると記したように、十和田湖の青龍権現と南部氏を結び付けることで三戸における存在基盤を宗教面から確実にした。
「十和田の本地」を作成した善徳院こそ、南部氏の陣僧的存在であった。
慶長4年(1599年)に岩手盛岡へと移った南部信直・利直はひとつの問題に直面する。
南部氏の霊地である十和田湖との距離が遠くなり、一方では盛岡城下から仰ぎ見える岩手山・早池峰山・姫神山の祭祀を管理することになったのである。
岩手山を「領内総鎮守」として5月27日を祭礼日に定め、山頂に奥の宮、山麓の登山口3ヵ所と城下に新山堂を設置、登山3ヵ所は三戸の修験を連れてきて祭礼にあたらせた。
しかし話は単純ではなく、存在基盤を宗教面から確実にするためには岩手山と南部氏を結び付ける必要があった。
南部氏より以前の岩手山は鎌倉御家人・工藤氏や、その流れを組む栗谷川氏が大宮司として祭祀を管理していた。
『岩手山記』によると、坂上田村麻呂が行基作の阿弥陀・薬師・観音を岩手山に祀り、霧山嶽(岩手山の古名)で高丸・大嶽丸・吹落という鬼神を討伐した。
その後は安倍氏が崇敬していたが源頼義・義家親子が盗み、前九年の役で安倍氏を討伐して高家となった。
源氏に相伝された三尊仏は源頼朝の守護仏となり、工藤行光が拝領して岩手山の大宮司に任命されて元に戻った。
文治5年(1189年)に奥州合戦で軍功をたてた工藤行光が頼朝からこの地を拝領したことで、存在基盤を宗教面から確実にするために岩手山と工藤氏を結び付けていた。
南部氏は、この工藤氏によるプロパガンダをさらに上書きするために御国浄瑠璃『御山本地一代記』を創出した
物語後半で田村将軍利仁が岩手山の鬼を退治して岩鷲山大夫権現として荒人神となり、田村将軍に付き従った斎藤五郎なる人物が祭祀をする。
斎藤氏は、工藤氏に仕えて岩手山の別当として祭礼を司ったが、南部氏が盛岡へと移ってきたため、禰宜を堅持するためには南部氏との関係を構築する必要があった。
南部氏にとっても禰宜である斎藤氏を取り込むことで岩手山の祭祀をスムーズに引き継げた。
思惑が一致した両氏は岩手山の阿弥陀・薬師・観音を岩鷲山大夫権現に置き換え、南部藩の職称別号「大善大夫」を「大夫権現」として見立てた。
また岩鷲山大夫権現=南部氏とした上で、岩鷲山大夫権現となる田村将軍の家臣として斎藤五郎なる人物を登場させた。
『御山本地一代記』には他にも様々な仕掛けが施されている。
正室が田村麻呂の子孫を称した田村家出身であり、御伽草子『田村の草子』の内容を支配地域にあわせて変更した御国浄瑠璃『田村三代記』を作るだけで、意図も容易く宗教面のプロパガンダを成立させた伊達政宗。
工藤行光による源頼義・義家と頼朝を使ったプロパガンダを消しつつも、工藤氏の家臣である斎藤氏を取り込みながら、南部氏と無関係な田村麻呂まで宗教面のプロパガンダに利用しなければいかなかった南部信直・利直親子の苦労が『御山本地一代記』から伺える。
693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/27(木) 13:26:31.68 ID:0zdRWkWm
東北はとりあえず坂上田村麻呂と先祖が絡んでたってのがプロパガンダの基礎になるのね
694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/27(木) 15:50:27.85 ID:oovRDk1b
古代東北は天台教団、長谷信仰、白山信仰、羽黒信仰、鹿島信仰あたりがエミシに対して布教活動をしていた
東北に慈覚大師、白山神社、十一面観音が多いのは奥州安倍家と奥州藤原家が上記の宗教を庇護したから
宗教は民衆の支配にも使えるしね
でも前九年の役や奥州合戦で安倍藤原が滅亡すると、中世には鎌倉御家人が東北に入り込んできて
彼らは宗教を庇護するだけでなく、宗教の中枢に入り込むことで一大勢力を作り上げようとした
だから戦国時代には鎌倉御家人の系統が司祭や禰宜を独占していた
伊達家にしろ南部家にしろ、この地域で本拠地が変わったり、新たな土地を獲得すると、そのつど支配者と宗教の不一致が起こる
何をするにしても鎌倉御家人系統の司祭や禰宜が邪魔になるわけ
その時の便利ワードが天台教団、長谷信仰、白山信仰、羽黒信仰、鹿島信仰の時代から使われてた「田村麻呂とワイらは関係あるんやでー」っていうプロパガンダ
これを宗教じゃなくて家系に取り込んで成立してた地域が三春
平姓田村家も藤原姓田村家もとりあえず支配すると坂上姓を名乗る
南部信直・利直とプロパガンダ
青森三戸では三戸斗賀霊験堂・善徳院によって熊野権現の申し子という南祖坊が八郎太郎を討伐して十和田湖の主となる「十和田の本地」が作成された。
三戸を本拠とした南部氏は、『祐清私記』で利直の武勇は夢に南祖坊が現れたためであると記したように、十和田湖の青龍権現と南部氏を結び付けることで三戸における存在基盤を宗教面から確実にした。
「十和田の本地」を作成した善徳院こそ、南部氏の陣僧的存在であった。
慶長4年(1599年)に岩手盛岡へと移った南部信直・利直はひとつの問題に直面する。
南部氏の霊地である十和田湖との距離が遠くなり、一方では盛岡城下から仰ぎ見える岩手山・早池峰山・姫神山の祭祀を管理することになったのである。
岩手山を「領内総鎮守」として5月27日を祭礼日に定め、山頂に奥の宮、山麓の登山口3ヵ所と城下に新山堂を設置、登山3ヵ所は三戸の修験を連れてきて祭礼にあたらせた。
しかし話は単純ではなく、存在基盤を宗教面から確実にするためには岩手山と南部氏を結び付ける必要があった。
南部氏より以前の岩手山は鎌倉御家人・工藤氏や、その流れを組む栗谷川氏が大宮司として祭祀を管理していた。
『岩手山記』によると、坂上田村麻呂が行基作の阿弥陀・薬師・観音を岩手山に祀り、霧山嶽(岩手山の古名)で高丸・大嶽丸・吹落という鬼神を討伐した。
その後は安倍氏が崇敬していたが源頼義・義家親子が盗み、前九年の役で安倍氏を討伐して高家となった。
源氏に相伝された三尊仏は源頼朝の守護仏となり、工藤行光が拝領して岩手山の大宮司に任命されて元に戻った。
文治5年(1189年)に奥州合戦で軍功をたてた工藤行光が頼朝からこの地を拝領したことで、存在基盤を宗教面から確実にするために岩手山と工藤氏を結び付けていた。
南部氏は、この工藤氏によるプロパガンダをさらに上書きするために御国浄瑠璃『御山本地一代記』を創出した
物語後半で田村将軍利仁が岩手山の鬼を退治して岩鷲山大夫権現として荒人神となり、田村将軍に付き従った斎藤五郎なる人物が祭祀をする。
斎藤氏は、工藤氏に仕えて岩手山の別当として祭礼を司ったが、南部氏が盛岡へと移ってきたため、禰宜を堅持するためには南部氏との関係を構築する必要があった。
南部氏にとっても禰宜である斎藤氏を取り込むことで岩手山の祭祀をスムーズに引き継げた。
思惑が一致した両氏は岩手山の阿弥陀・薬師・観音を岩鷲山大夫権現に置き換え、南部藩の職称別号「大善大夫」を「大夫権現」として見立てた。
また岩鷲山大夫権現=南部氏とした上で、岩鷲山大夫権現となる田村将軍の家臣として斎藤五郎なる人物を登場させた。
『御山本地一代記』には他にも様々な仕掛けが施されている。
正室が田村麻呂の子孫を称した田村家出身であり、御伽草子『田村の草子』の内容を支配地域にあわせて変更した御国浄瑠璃『田村三代記』を作るだけで、意図も容易く宗教面のプロパガンダを成立させた伊達政宗。
工藤行光による源頼義・義家と頼朝を使ったプロパガンダを消しつつも、工藤氏の家臣である斎藤氏を取り込みながら、南部氏と無関係な田村麻呂まで宗教面のプロパガンダに利用しなければいかなかった南部信直・利直親子の苦労が『御山本地一代記』から伺える。
693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/27(木) 13:26:31.68 ID:0zdRWkWm
東北はとりあえず坂上田村麻呂と先祖が絡んでたってのがプロパガンダの基礎になるのね
694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/27(木) 15:50:27.85 ID:oovRDk1b
古代東北は天台教団、長谷信仰、白山信仰、羽黒信仰、鹿島信仰あたりがエミシに対して布教活動をしていた
東北に慈覚大師、白山神社、十一面観音が多いのは奥州安倍家と奥州藤原家が上記の宗教を庇護したから
宗教は民衆の支配にも使えるしね
でも前九年の役や奥州合戦で安倍藤原が滅亡すると、中世には鎌倉御家人が東北に入り込んできて
彼らは宗教を庇護するだけでなく、宗教の中枢に入り込むことで一大勢力を作り上げようとした
だから戦国時代には鎌倉御家人の系統が司祭や禰宜を独占していた
伊達家にしろ南部家にしろ、この地域で本拠地が変わったり、新たな土地を獲得すると、そのつど支配者と宗教の不一致が起こる
何をするにしても鎌倉御家人系統の司祭や禰宜が邪魔になるわけ
その時の便利ワードが天台教団、長谷信仰、白山信仰、羽黒信仰、鹿島信仰の時代から使われてた「田村麻呂とワイらは関係あるんやでー」っていうプロパガンダ
これを宗教じゃなくて家系に取り込んで成立してた地域が三春
平姓田村家も藤原姓田村家もとりあえず支配すると坂上姓を名乗る
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コメント
人間七七四年 | URL | -
Wikipediaでも史実の坂上田村麻呂と伝説の坂上田村麻呂が別々の記事として成立しとるくらいだし
各地で坂上田村麻呂がプロパガンダに使われまくってたんだろうな
( 2020年02月27日 20:09 )
人間七七四年 | URL | -
※1
坂上田村麻呂て海外で黒人説が有る位らしいからねえ。
なんでそんな説が広まったのかWikipedia見ても謎過ぎですわ。
( 2020年02月27日 20:41 )
人間七七四年 | URL | -
※2
考えるな、感じるんだ
( 2020年02月27日 22:01 )
人間七七四年 | URL | -
※2
wikiの坂上田村麻呂黒人説見てきたw
草生え散らかす内容だったが、黒人の一部では真実として語り継がれるだろう
なにかの拍子で日本という国が亡くなるとそれが定説になるかもね
( 2020年02月28日 23:36 )
人間七七四年 | URL | -
その生まれ変わりがヤスケとかにいつの間にかなってたら、、、。
目も当てられないのでやめて欲しい。ホントに。
( 2020年02月29日 17:54 )
人間七七四年 | URL | -
※5
「ブラック・トゥ・ザ・フューチャー 坂上田村麻呂伝」って小説でもうやってんだよなあ
こういうとこから広まったりするよね
( 2020年02月29日 20:38 )
人間七七四年 | URL | -
プロパガンダプロパガンダうるせえなあ
先祖の仮託なんて誰でもどこでもいつでもやってるわ
系図こしらえて姓付け替えたり妖怪退治の伝説を謳ったり
領民にすり寄って懐柔する統治策でしかない
本義のプロパガンダってのは民衆の逆心を法で縛りつけた徳川幕府の実名禁止のことをいうんだよ
だから江戸時代には仮名の演劇に引っ張られて民間レベルで誤伝、曲解、偽書の類が大量に生まれ続けた
田村語りも同じことだ
( 2020年03月06日 09:25 )
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