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小野木縫殿頭切腹の事

2020年03月24日 16:41

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/23(月) 22:27:15.18 ID:aD4lGeCD
小野木縫殿頭切腹の事

関ヶ原表は家康公の御利運と成ったため、諸大名には御暇が下され、彼らは国々へと帰った。
この時、細川越中守(忠興)が権現様に申し上げた

「小野木縫殿頭の居城は、幸いにもそれがしが在所に帰る道ですから、通りがけに踏み潰し、小野木の首を見て
まかり通るべきと考えます。」
(筆者注:小野木重勝は関ヶ原で西軍に属し、細川幽斎の籠もる田辺城を攻撃し、開城させた)

家康公も「そのように考えていたところだ。忠興の思った通りに成すべき。」と仰せが有り、慶長五年十月十七日、
福知山の城を取り巻いて、ただ一乗にと揉み立てる。
去る十月(原文ママ。正確には七月である)、縫殿頭は田辺城を攻めており、その意趣は甚だ深く、
「小野木の首を見るまでは、日夜を分けじ!」と下知された。

この福知山の城は、巽の方角より差出て、油崎に本城を取っていた。その下は蛇が鼻といって、東西に引き廻した
大河の内に堀を掘り、この堀は要用の堀であるので、その高さは幾尋という限りも無いほどであった。
然し乍らここには浮草が覆い浅く見えたために、細川衆先手の人数は我先にと飛び入った。これゆえ若干の人数が
溺死した。後方が非常に堅固な縄張りであると見えた。

忠興はこの様子を見て、蛇が鼻表は先ず置いて、南の丘より攻めた所に、忠興の旧友である山岡道阿弥(景友)が
馳せ来て両者の扱いに入ったため、小野木は城を開き、自身は剃髪染衣と成って上方へと退いた。
ところが忠興は憤りなお醒めず、また兵に追いかけさせ、亀山にて捕らえ、嘉仙庵という寺にて敢え無く腹を切らせた。

丹州三家物語

細川忠興の福知山城攻めと小野木重勝の最期についてのお話



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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    まぁ、開城した親父にすらキレてる忠興に許されるわけないよね

  2. 人間七七四年 | URL | -

    俺の中では「いくら有能でもこの性格では」というタイプの典型だわ

  3. 人間七七四年 | URL | -

    田辺城攻めで、なんでこの人だけやる気に満ちていたのかよくわからん
    (東軍に内通していた、だの、幽斎と親しかった、とかばっかり)

  4. 人間七七四年 | URL | -

    仲裁に入った山岡氏の面目丸つぶれですやん…

  5. 人間七七四年 | URL | -

    水口城の顛末も胸糞もいいところだしなぁ
    東軍が関ヶ原後にやった所業はもっと糾弾されて然るべきだわな

  6. 人間七七四年 | URL | -

    ※5
    斎村政広「なぜワシだけ…」

  7. 人間七七四年 | URL | -

    ※6
    亀井某「ごめん...」

  8. 人間七七四年 | URL | -

    みっちゃんの親族じゃなかったか?

    やると決まったら一所懸命やる。
    小野木じゃなくて別の有名武将だったら、
    さすか!と讃えられるところじゃない?

  9. 人間七七四年 | URL | -

    ※8
    一方面の大将として城攻めを行い開城に持ち込んでいる
    と書くと大津城を攻めた立花宗茂と同格に見えるのだが
    どうも大津城はガチで田辺城はプロレスという印象が拭えない

  10. 人間七七四年 | URL | -

    ※9
    田辺城はビッグネームである細川を屈服あるいは西軍側に引き入れるという政略的な意味が大事なんであって何がなんでも殺したいわけではない。
    でも大津城は岐阜城が陥落。当初の防衛ラインが崩壊した上に勢力圏内で寝返り食らった形になるからマジになるのはやむ無しかと。
    マジだからこそ立花ら西軍の中でも高練度な部隊を一気に投入して手早く片付けようとしたんだろうし。

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