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週刊ブログ拍手ランキング【03/26~04/01】

2020年04月01日 14:55

03/26~04/01のブログ拍手ランキングです!


細川幽斎による、鉄砲隊運用の心得 11

当家続き申す内は、今度の御恩忘れ申しまじき 11

フランチェスコ・カルレッティ「世界周遊記」の日本に関する部分の続き 8
仔細が有り、丹波路を行く 8

合戦場にて鑓を合わせる時に 7
黄金百枚の儀 7
鷹にとらせ申度候御免候へかしと申候得ば 5


今週の1位はこちら!細川幽斎による、鉄砲隊運用の心得です!
細川幽斎の語る鉄砲隊の運用ですが、これを見ると、正直あまり大きな部隊を想定していませんね。せいぜい十数人から、
多くて数十人?くらいでしょうか。このあたりは細川幽斎は主に合戦を行った場所が畿内近国であり、足利将軍、また信長の
下にあった、という事を考えるべきかも知れません。当時、東国では既に兵種別編成が行われていたとされますが、畿内西国では
必ずしもそういった運用は成されておらず、配下の武士団ごとに編成されたと考えられます。信長も例外ではなく、長篠の段階でも
鉄砲隊は所属する武士団から一旦離され「織田軍」として再編成された、というよりも、その武士団の鉄砲隊ごとに配置された、と
見られています。そこでは大まかな方針と指揮はあっても、判断の多くは各部隊に任されており、そういった環境下に於いて、
このほ幽斎のような発想が出てくるのではないか。そんなふうに考えました。
これに限らず戦国の軍隊の運用というものは、進んでいる遅れているではなく、はやりそれぞれの置かれた環境での合理性を
求めて成り立つもので、こういった記録から、当時の軍隊の環境を考えるのも、また面白いと思います。

今週が同票でもうひとつ!当家続き申す内は、今度の御恩忘れ申しまじき です!
こちらは幽斎の息子、忠興による、前田利家と徳川家康を和解させた事のお話ですね。
江戸期まで残った大名家ではその多くに、関ヶ原前後に、このように家康、徳川家に対して何かしらの大きな功績を成した、という
「由緒」が伝わっているものでして、これも事実かどうかと言うよりも、後の肥後細川家における「由緒」であると考えるべきでしょう。
この由緒故に、細川家の処遇に関して、幕府は様々に考慮せざるを得ないわけで、大名家にとって武器でも在るのですね。
この手の「由緒」で面白いものは、毛利家に伝わった、関ヶ原合戦後の毛利に対する家康の、「防長二州安堵」のお墨付きでしょう。
これによって、逆に毛利家は、関ヶ原の結果減封されたにせよ、防長二州に関しては「家康の保証を得た」という形になり、
以降その所領を保全する最大の根拠ともなりました。毛利氏は参勤交代の際、このお墨付きを先頭に立てて江戸に入ったと
言われます。「由緒」の露骨なデモンストレーションですねw
勿論ここに描かれている事は、歴史に一端も現していると思いますが、もう一つ、この話が残された理由、というものも考えてみると、
また違った面白さを発見できるかも知れません。

今週管理人が気になった逸話はこちら!フランチェスコ・カルレッティ「世界周遊記」の日本に関する部分の続きです!
こういった、外国人、外部による記録の面白いところは、当時の日本人が「あたりまえ、当然のこと」として記録しなかった事を、
外部的には不思議な慣習、習俗であるとして、記録してくれるところでしょう。当時の日本人が輸入品として蘇芳や白檀(?)を
重視していた事など、非常に興味深いと思います。
また「A」や「O」がyesの意味だというのは、「ああ」「応」という事でしょうし、「Mi」が自分を表すというのは、「身」「身共」を
指しているのでしょう。このあたりから当時の人々の言葉遣いを想像するのも非常に楽しいと思います。
こういった記録は、直接的に歴史の流れに関わりがなくても、それを見る際の視界を非常に広く、豊かにしてくれますね。
そういう意味でも、貴重な内容だと思います。


今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話を読んだときは、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/
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