974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 21:34:55.97 ID:BaNKVLgT
今日、鹿児島市が新たな観光資源として復元していた鶴丸城御楼門が無事完成・開通しました。
島津義久と茅葺の門(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-587.html)
の話しを無視している大変立派な門です。コロナのおかげで影がすごく薄くなりましたが
何でわざわざ門だけ復元と思うかもしれませんが島津忠恒が鶴丸城を建築した時期は
鹿児島城ができるまで・悪い話(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-566.html)
↑に書かれてる通り関が原後の微妙な時期に建てられたので天守閣等の目立った物はなく、
館のみという城だったので正門が一番目立つ存在だったそうです。
(鶴丸上跡地自体は美術・歴史館、図書館、博物館、医療センターとなっているので
現在のほうが防御力高そう)
というわけで開通記念に鶴丸城の話をひとつ
鶴丸城はすぐ裏手が山となっていますがそこの防備はどうなっていたのかの話しです。
975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 21:35:21.32 ID:BaNKVLgT
「夏蔭城」
現城山展望台の裏手に位置するここは昔は大きな楠がたくさん茂り、暑さ知らずの高涼地だったので
夏蔭と呼ばれていました。
城山は山自体が城の一部とされていましたが(実際戦になったら城山全体に陣を張る見込みだった)
裏手からの攻撃には無防備でした。そこで裏手から攻められた際の要であるこの地を守る為、
武士が配置されていました。
特に城や砦は設けられず、日光から守ってくれる楠のあるこの地は夏蔭城と呼ばれるようになりました。
・・・せめて番所位は作ってあげようよ忠恒さん
補足すると元々城山には上山城という城の遺構がのこっていたのでそれを利用する目論見もあったみたいですが
平和裏に徳川へ帰順できたので作られず、変わりに島津歳久の孫の常久が陣を張っていたのですが、
常久が早世した後は任命されず、城山自体が聖域として立入禁止となったその後の警備の話となります。
結局、島津家が城山を使った防衛システムを活用することはありませんでしたが、
(薩英戦争の時は大砲の射程内だったため別の場所に避難してますし)
西南戦争最後の舞台に西郷軍が防衛システムを使用、そして最後の日に夏蔭城が陥落し裏手から官軍が
雪崩れ込み西郷さん達の最後の突撃が行われることになりました。
御楼門自体は観光の目玉とはなりませんが上の通り周辺は西南戦争関連や歴史館など歴史好きな人向けの
観光スポットとなっていますので是非お越しください。コロナ終わったら
976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 21:35:49.86 ID:BaNKVLgT
忠恒が防備の弱い城を作ったことに関して少しだけフォローを入れますと、
鶴丸城の前の本拠地の内城(現鹿児島市立大龍小学校)(おそらく↑↑の島津義久と茅葺の門の城)
ゲームとかだと立派な城ですが実態はただの館でした。(堀とかもなく塀があるだけだった模様)
近くに前本拠地・前々本拠地(清水城・東福寺城)が後詰の城としてあるとはいえ防衛力は無いに
等しかったんじゃないかと。
決戦指向だったせいかそれとも守りやすい本拠地の現日置市や鹿児島に入る前の
姶良市の城々で止めるつもりだったかはあるかもしれませんが、他の大名よりと比べ本拠地の防備に
無頓着な所は面白いです。
今日、鹿児島市が新たな観光資源として復元していた鶴丸城御楼門が無事完成・開通しました。
島津義久と茅葺の門(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-587.html)
の話しを無視している大変立派な門です。コロナのおかげで影がすごく薄くなりましたが
何でわざわざ門だけ復元と思うかもしれませんが島津忠恒が鶴丸城を建築した時期は
鹿児島城ができるまで・悪い話(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-566.html)
↑に書かれてる通り関が原後の微妙な時期に建てられたので天守閣等の目立った物はなく、
館のみという城だったので正門が一番目立つ存在だったそうです。
(鶴丸上跡地自体は美術・歴史館、図書館、博物館、医療センターとなっているので
現在のほうが防御力高そう)
というわけで開通記念に鶴丸城の話をひとつ
鶴丸城はすぐ裏手が山となっていますがそこの防備はどうなっていたのかの話しです。
975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 21:35:21.32 ID:BaNKVLgT
「夏蔭城」
現城山展望台の裏手に位置するここは昔は大きな楠がたくさん茂り、暑さ知らずの高涼地だったので
夏蔭と呼ばれていました。
城山は山自体が城の一部とされていましたが(実際戦になったら城山全体に陣を張る見込みだった)
裏手からの攻撃には無防備でした。そこで裏手から攻められた際の要であるこの地を守る為、
武士が配置されていました。
特に城や砦は設けられず、日光から守ってくれる楠のあるこの地は夏蔭城と呼ばれるようになりました。
・・・せめて番所位は作ってあげようよ忠恒さん
補足すると元々城山には上山城という城の遺構がのこっていたのでそれを利用する目論見もあったみたいですが
平和裏に徳川へ帰順できたので作られず、変わりに島津歳久の孫の常久が陣を張っていたのですが、
常久が早世した後は任命されず、城山自体が聖域として立入禁止となったその後の警備の話となります。
結局、島津家が城山を使った防衛システムを活用することはありませんでしたが、
(薩英戦争の時は大砲の射程内だったため別の場所に避難してますし)
西南戦争最後の舞台に西郷軍が防衛システムを使用、そして最後の日に夏蔭城が陥落し裏手から官軍が
雪崩れ込み西郷さん達の最後の突撃が行われることになりました。
御楼門自体は観光の目玉とはなりませんが上の通り周辺は西南戦争関連や歴史館など歴史好きな人向けの
観光スポットとなっていますので是非お越しください。コロナ終わったら
976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 21:35:49.86 ID:BaNKVLgT
忠恒が防備の弱い城を作ったことに関して少しだけフォローを入れますと、
鶴丸城の前の本拠地の内城(現鹿児島市立大龍小学校)(おそらく↑↑の島津義久と茅葺の門の城)
ゲームとかだと立派な城ですが実態はただの館でした。(堀とかもなく塀があるだけだった模様)
近くに前本拠地・前々本拠地(清水城・東福寺城)が後詰の城としてあるとはいえ防衛力は無いに
等しかったんじゃないかと。
決戦指向だったせいかそれとも守りやすい本拠地の現日置市や鹿児島に入る前の
姶良市の城々で止めるつもりだったかはあるかもしれませんが、他の大名よりと比べ本拠地の防備に
無頓着な所は面白いです。
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コメント
人間七七四年 | URL | -
秀吉の処罰後に、悔しくて国内に沢山の『城』という名の館レベルを大量に造ったから、
後世の考えてる完全無欠な城じゃないんじゃない?兵を一時的に留め置く程度の施設。
( 2020年04月13日 03:43 )
人間七七四年 | URL | -
守護大名上がりは館住まい多いよね武田とか今川とか
やっぱり伝統ある本拠地をそう簡単に変えられないのかな
( 2020年04月13日 07:14 )
人間七七四年 | URL | -
まぁ、>1さんの書かれた通りでしょうね
一つの城にみんなで籠るより外城を用いて各個護る方が、敵戦力も分断できるしゲリラ戦も展開しやすい
島津家は秀吉臣従後も帰農しないで士分のままの者が殆どだったからこそのものだけど
( 2020年04月13日 13:17 )
人間七七四年 | URL | -
シンプルにお金がなかったのと建築技術の欠如、そして何より中央集権前だからじゃないの
家久は正に一生かけて薩摩藩で島津宗家の権力集中進めていったからね
関ケ原直後の造成だし藩内は庄内の乱も含め大混乱している真逆中、家久も三殿体制で権力も直轄領も少ない
藩内権力の掌握に成功した晩年は対幕府的にも世間の平和情勢的にも城の新築は無意味だったしね
( 2020年04月13日 17:10 )
人間七七四年 | URL | -
>3
実はその外城も外城制なんて呼ばれるほど制度上きちんと整備されたものではなかったんですよ。
どちらかというと外城という根城に勢力を保持した集団が素直に中央(島津宗家)のいうことを聞かないものだから面倒を起こして幕府に睨まれるくらいならと適度な自治を認めて放っておいたというのが実態に近いようです。納めるべきものを納めて面倒を起こさないでいてくれれば為政者側からすればそれで十分ですしね。
島津家の治めた薩摩大隈と日向の一部は山がちで小さな扇状地や盆地、谷筋といった細切れの土地でしたので中央の目がなかなか行き届かないんです。
城に関しても技術の不足、時間の不足、資金の不足、なにより幕府を刺激しないための外交的選択という部分が大きいと思います。
( 2020年04月13日 18:39 )
人間七七四年 | URL | -
>>1
外城制は秀吉の前からあってその頃は山城・砦を中心としてましたよ。実態は>5さんの言うとおり単に国人ではという状態ですが。
家久が秀吉や三成の協力の元、行政区間としての制度の面をどんどん強くしていきました。
まあ、薩摩藩の士分の数だと家臣集住とか金銭的にも土地的にも無理なのが理由でしょうけど。
城に関しては貴久も手狭で不便だからと内城(館)を義弘も城代時代に昇るのが面倒と麓に城(館)を作っているので単に殿様のいる場所=城というネーミングセンスだったんでしょうか?
( 2020年04月13日 21:01 )
人間七七四年 | URL | -
そもそも
こいつらが籠城するイメージがないw
( 2020年04月14日 01:36 )
人間七七四年 | URL | -
本スレ976殿
茅葺きの門のお城は内城ではなく
霧島市隼人町にある富隈城です。
(義久が関ヶ原の時も含めて10年住んでいました)
なお、門の建て直しを進めた家臣の内の一人は
山田有信です。
( 2020年04月14日 23:29 )
人間七七四年 | URL | -
今年は島津豊久生誕450年なので
ドリフターズ原画展が東京と長崎と
宮崎と鹿児島であるはずでしたがコロナ
で延期になりましたので、落ち着いたら
城門と原画展を見に来てくださいませ。
なお、鹿児島の会場の薩摩金山蔵は
いちき串木野市です。
( 2020年04月15日 13:01 )
人間七七四年 | URL | -
※8さん
そうだったのですね、有難うございます。
建築時期が近いのに茅葺きの門と国内でも大きい部類の門と方向性が別々ですね(立場の違いでしょうが)
なんか義久衆と家久衆が仲悪い原因の一つかもですね
( 2020年04月15日 23:09 )
人間七七四年 | URL | -
西郷どんの時期にブラタモリで紹介されていましたね?
見た限り海が目の前だし、城も横に伸びた構造、例えあの山に篭っても
大した抵抗は無理だったと思う
( 2020年04月16日 08:51 )
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